2024年4月26日(金)

ひととき特集

2010年1月22日

千田 ああ、それはまったく、その通りでしょうね。藤原京は持統〔じとう〕天皇以来、文武、元明〔げんめい〕と3代続いた京ですが、ここへ遷ってわずか十余年後の慶雲4(707)年には、もう次の遷都のことを議論せよという詔が出ている。けれど詔を出した文武天皇は、その4カ月後には没しています。ここから察するに、詔を出した時点ではすでに病気で、誰か、天皇を陰で操る人物が存在した……。それが藤原不比等、ということは、まず間違いないでしょう。

 さらに、文武の死後に即位した元明女帝は、和銅元年2月に発した詔の中で、「自分は遷都などしたくないけれど、取り巻き連中が取り沙汰するから従わざるを得ない」といった意味のことを言っているんです。そこには、天皇主導ではなく藤原氏の圧力で平城に行くんだ、という不服感が漂う。これは平城京遷都の意味を探る、決定的な詔と見ていいと思いますね。

奈良時代の天皇家・藤原氏系図
(数字は天皇代数)
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里中 たとえ不比等さんにインタビューできたとしても、正直に答えてくださるかどうかわかりませんけれど……、藤原から平城へ、京を遷さなければ達成できない「何らかの理由」があるとすれば、それは、“新都建設プロジェクトのプロデューサーは誰だ!?”という、その「重み」の必要性、でしょうか? 

 藤原京の場合、プロデューサーは明らかに天武天皇。天武が主導して、その後をうけた持統が完成した京ですよね。それに対して、もし不比等が、今度は自分が国家運営のプロデューサーになるのだ、と決心したのなら、「遷都」というのは、素晴らしく効果的な一大プロジェクトですものね。

千田 そうです。詰まるところ平城遷都は、「天皇の京」から「藤原氏の京」への都遷り、私はそう考えています。平城京は、藤原不比等が自分の血統を継ぐ孫、首〔おびと〕皇子を天皇の位につけるために用意した壮大なステージであろう、と。ただ、これをあまり大きな声で言うと、日本人のロマンが薄らいでしまう(笑)。

里中 首というのは後の聖武〔しょうむ〕天皇。文武天皇と不比等の娘宮子〔みやこ〕との間に生まれた皇子ですね。従来なら、皇族でない母を持つ皇子が即位するなど考えられない。けれど、それを実現させるだけでなく、首皇子のもとへ、自分(不比等)と橘三千代〔たちばなのみちよ〕との間の子、光明子〔こうみょうし〕を入れて皇后に立てようとしたり、そこに産まれた子を生後まもなく立太子させたり、遷都をきっかけに前例のないことを次々に推し進めていきますよね。ただ、そこには「放っておけばこの国はダメになる。強引でなくて改革などできるものか!」といった、とてつもなく強固な信念が感じられる気もしますが。

千田 もちろん大志もあったでしょう。不比等は、大宝律令(1)制定の中心人物でもあり、法治国家、唐への憧れもある。そこで唐の都、長安をモデルとした宮都建設を夢見るのですが、そこにはやはり、理想の追求以上に、権力に対する強い執着があったと、私は思います。

 しかし、そんな藤原一族がいたおかげで平城京は確立したとも言える。その功績はむしろ、もっと評価されるべきだと思うんですよ。事実、藤原四子と呼ばれる不比等の息子たち(武智麻呂〔むちまろ〕、房前〔ふささき〕、宇合〔うまかい〕、麻呂〔まろ〕)はいずれも優秀な官僚として国を支えていた。それだけに四兄弟が天然痘で次々と没した時、この国は大混乱に陥る。そうして聖武天皇の施政にも揺らぎが生じてくるんですね。

(1)日本で初めて律令が揃った法令集。大宝元(701)年完成。

 


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