学びなおしのリスク論

2016年12月27日

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漆原次郎 (うるしはら・じろう)

1975年生まれ。神奈川県出身。出版社で8年にわたり理工書の編集をしたあと、フリーランス記者に。科学誌や経済誌などに、科学技術関連の記事を寄稿。早稲田大学大学院科学技術ジャーナリスト養成プログラム修了。日本科学技術ジャーナリスト会議理事。著書に『原発と次世代エネルギーの未来がわかる本』『日産驚異の会議』『宇宙飛行士になるには』など。

 たしかに「あした雨か」「プレゼンはうまくいくか」「世界は大丈夫か」「テロに巻き込まれないか」は、すべて「不幸なできごとが起きるのか起きないのかがわからない」状態だ。

 そして、この「不幸なできごとが起きるかもしれないこと」を「リスク」とよぶと、島崎氏は続ける。詳しくいうと、リスクとは、「不幸なできごとが起きる確率が0%より大きく、100%より小さい状態」だと説く。

 「なので、不幸なできごとが起きる可能性がゼロでも、または起きてしまっても、それはリスクと言いません」

 リスクがゼロなら心配は起きない。一方、リスクが現実化してしまえば、もはやそれは心配の対象ではないわけだ。

 リスクが心配のもとだというのがわかった。だが、さまざまなリスクに対して、私たちが心配してしまうのはどうしてだろう。

 「リスクを心配して避けてきた個体は生き残り、それができなかった個体は淘汰された。心配する機能をもった生きものこそが生き残ってきたわけです」

 警察や安全装置などの存在は、心配のもととなるリスクを減らす。だが、これらの発明は文明史以降のこと。リスクがあれば心配するという体に備わった機能は、そう簡単になくならない。

リスクが「あるかなしか」で捉えようとしがち

 人の心配のしかたに、傾向はあるだろうか。

 「リスクが『あるかないか』で捉えようとする傾向はあります。『高いか低いか』といった量的評価ではあまり考えようとしません」

 たとえば、「地下水から基準値を上回る汚染物質が検出された」と報じられたとする。この「基準値」とは「生涯にわたって飲み続けても健康に影響を生じない水準」で設定されている値だ。だが「基準値」を超えているかどうかが、人びとにとって「健康被害リスクが『あるかないか』」の境界と見なされる向きがある。

 どうして人は「リスクが『あるかなしか』」で捉えようとしがちなのか。

 「そのほうが簡単で楽だからです。考えごとは省略できるに超したことはないということです」

 島崎氏は「現代に生きている私たちは、もっとも怠けてきた生きものの末裔」と表現する。怠けることはすなわち省エネだ。だから怠けるほど子孫を残す確率が高まる。その怠けの性質は思考にも現れる。「リスクが『あるかないか』」で考えようとするのも、怠けの最先端を行く私たちの特性といえよう。

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