2024年4月27日(土)

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2010年6月30日

 人間関係がうまくいかないと、「何でこの人はこうなのか……」と考えてしまうものだ。こうした考えにとらわれると、せっかく前に進もうとしていても、人生がつまらないほうに行ってしまうと、塩沼阿闍梨は言う。本を読んで頭で理解しても断ち切れない。ならば行を、ということだが、極限下での繰り返しで、どのような気づきがあったのだろうか。

写真:田渕睦深

 「命がけの行を繰り返す中で、肉体と精神、そして山に流れる気のようなものの変化を感じるようになりました。いつも同じ道を行きますから、行のはじめの50メートルの坂を歩くだけで、その日の自分の体調や自然の気配がどう違うかがわかるようになります。肉体と精神のバランス、山の気が噛み合わないと、汗ばかりかいたり呼吸が乱れたりして、いい行ができません」

 そういえば、先の酒井大阿闍梨も「一木一草の姿が日々違う」と、例えば一日分だけ草が伸びていることにさえ気づくと語っているが、塩沼阿闍梨も同じようだ。

 「草花がお天道様に向かってまっすぐに伸び、花を咲かせて実を結び、土に還る。それは自然の決まりごとで、春夏秋冬が巡り、水が高きから低きに流れるのも同じです。毎日歩いていると、大自然が、こうした律にもとづいた、嘘偽りのない真理そのものであることに気づきます。それは人生も同じだと思います。自分がいいことをすればいいことが返ってくる。これも律です」

 「例えばいいこととは、『ありがとう』『すみません』『はい』の気持ちを実践することです。行の途中、土砂降りの中でおにぎりを食べながら、今、自分の目の前に食べ物があるということが、とても幸せなことなんだと感謝をし涙を流します。極限の中に追い込まれると、日常、当たり前のことに感謝をするものです」

 人と仲良くありたい。理想とする自分を追い求めながら、そのとおり生きられない。そこから抜け出すにはどうしたらいいのか。葛藤と苦しみを抱えつつ、同じ道を自問自答しながら歩いた。限界と隣り合わせの状況で感性を研ぎ澄ませ、同じことを繰り返すことが、自分の心身の微妙な変化を気づかせた。のみならず、その感性は自分の周囲の変化もとらえた。

 こうした変化を感じることで、自分の問題を客観視できるし、周りとの関係性の中に自分が存在することも意識できる。何より、日ごろ混沌として見えなかった真実が浮かび上がってくるのも、単調ともいえる日々の中で余計なものが削ぎ落とされたことが背景にあるだろう。

文明や科学技術が発達して
便利なものへと人間が走りすぎています

 もちろん、なぜ行をやるのかという強い気持ちは欠かせない。それがなければ継続することもできないだろうし、何より漫然と繰り返していても得られるものは少ない。

 「1000回行って帰ってくれば、カリキュラムとしては合格です。しかし大事なのは、その中身です。人として大切なものは何かということを深く掘り下げていけばいくほど、会得するものも大きくなります」


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