2024年4月27日(土)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年3月26日

「名目上のみのロボット総統だった」

「野百合学生運動」は、1990年3月16日、「万年国会」に抗議する大学生数名が、当時デモや集会の禁止地域に含まれていた中正紀念堂で座り込みを始めたのが発端だ。

 当時、台湾と中国大陸は未だ内戦中である、と規定した「動員戡乱時期臨時条款」が発布されており、憲法が停止されていたために改選が行われず、特権を享受し、高額な禄を食む国民大会代表や立法委員は「万年国会」と呼ばれ、非難の対象となっていた。学生たちは、国民大会代表らの傲慢な態度に対して抗議を行ったのである。

 この抗議行動が報道されると、翌日から支援者が数百人規模で増え続け、最終的には6,000人近い大学生が参加したといわれている。

 李登輝は、もちろん一方で万年国会解消のため、高額の退職金や年金と引き換えに国民大会代表らの引退を促していた。そんなさなかの3月18日、学生たちは正式に民主化に関する「四大要求」を総統の李登輝に対して提出し、憲法改正や国是会議の招集、民主改革のタイムテーブルの提示などを求めたのである。

 当時は1990年3月。総統の座にあったとはいえ、李登輝は1988年1月に急逝した蒋経国総統の残余任期を継ぐための、いわばピンチヒッター的な役割として見られていた部分があったことは否めない。本人も、この時期を振り返り「憲法上、総統に昇格したに過ぎない名目上のみのロボット総統だった」と語っている。

 党内では、さらに李登輝の頭を悩ませる問題が起きていた。まもなくに迫った総統副総統候補者の指名選挙に向け、李登輝を担ぎ上げた主流派と、反対派である非主流派の争いが熾烈を極めていたのだ。李登輝はその板挟みに遭いながら困難な政権運営を強いられることになる。李登輝が政治大学の学長出身で、温厚な李元簇を副総統候補として指名をとりつけ、選挙を勝ち抜いて(当時は国民大会代表による間接投票)名実ともに総統の座を手に入れるのは「野百合学生運動」の活動真っ最中の3月21日のことである。

 それと前後して、李登輝は南国とはいえ、まだ肌寒く、夜には冷え込む3月に、学生たちが寒さに震えながら座り込みやハンストをしていることを知ると、自ら中正紀念堂に赴いて学生たちと対話することを望んだ。しかし、総統の警護を担当する国家安全局から「万全の警備ができず、身の安全を保証できない」という強い意見具申を受け、夕方に車両で中正紀念堂の周囲を走り、学生たちの様子を観察するに留めたという。

 3月20日、総統府はプレスリリースを発表し、学生たちの要望を受け入れ、国是会議を開催することなどを決定。総統府秘書長を現場に派遣し、学生代表と直接会って対話することを伝えた。

 翌21日、前述のとおり、李登輝は国民大会における間接選挙で総統の座についた。李登輝はさっそく、総統府内へ学生代表を招き、彼らの要求に耳を傾けるとともに「皆さんの要求はよくわかりましたから、中正紀念堂に集まった学生たちを早く学校に戻らせ、授業を受けるようにしなさい。外は寒いから早く家に帰って食事をしなさい」と言葉をかけたそうだ。


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