2024年12月22日(日)

日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔

2019年3月26日

孤立無援で困難を極めたという李登輝元総統による「台湾の民主化」。唯一の日本人秘書である早川友久さんがその真相を解説します。

 李登輝が進めた台湾の民主化は、当初から順風満帆だったわけではもちろんない。むしろ、学者出身で、農業経済学の若き権威としてたまたま蒋経国の目にとまったのが政界入りするきっかけだったくらいだから、そもそも政治の世界で出世していこうという野心もない。それゆえ、いくら蒋経国の抜擢によって副総統の地位まで登りつめたとはいっても、実際のところ、いざ総統の地位に座ってみると、何もかもが「ないない尽くし」なのである。つまり、派閥もなければ、軍も情報機関も掌握していない。後ろ盾となる元老さえいない。それこそ孤立無援のなか、総統に思いがけずなってしまった、という表現のほうが当てはまるくらいだろう。

 そんな権力基盤の著しく不安定な李登輝であるから、民主改革は困難を極めた。むしろ、おっかなびっくり、手探りで慎重に進められたと言えるだろう。今回からは、3回に分け、李登輝が民主化の過程で直面した、数ある困難のなかでも、特に転換点となった「1990年の野百合学生運動」、「1995年の台湾海峡ミサイル危機」「1999年の『特殊な国と国との関係』発言」を取り上げ、その背景と李登輝の奮闘を書いていきたいと思う。

「ひまわり学生運動」と「野百合学生運動」の共通点

 話は飛ぶが、2014年3月、「ひまわり学生運動」が勃発した。国民党の馬英九政権が推進しようとした、中国と台湾の「サービス貿易協定」締結に抗議すべく、学生を中心とした若者たちが立法院(国会)を占拠した事件だ。

2014年3月、中台「サービス貿易協定」 に対する抗議デモ(写真:ロイター/アフロ)

 発端となった「サービス貿易協定」は、台湾の主幹産業でもあるサービス業へ、中国大陸からの進出を開放するもので、これが決まれば台湾の経済や就業機会は大きな打撃を受けかねないと、慎重な議論を求める声が高まっていた。

 ところが馬英九政権は、審議を途中で打ち切り、強行採決を行おうとして、議場は大きな騒ぎとなっていた。そして、与党国民党の姿勢に立法院前で抗議していた若者たちが立法院の占拠に踏み切ったのである。

 結局この立法院占拠は、4月上旬まで3週間あまり続いた。王金平・立法院院長(当時)が、貿易協定を監督するメカニズムが法制化されるまでは、協定の審議を行わないと明言したことで、「ひまわり学生運動」は収束することとなった。

 当時、この「ひまわり学生運動」は、過去に李登輝政権下で、やはり学生たちが中心となって起きた「野百合学生運動」と比較して報じられることも多かった。若者とくに学生が中心となって、台湾の政治を大きく変えたひとつのエポックメイキングな出来事であるからに違いない。

 2014年の「ひまわり学生運動」からさかのぼること24年前のちょうど同じ季節。立法院から徒歩で10分ほどの中正紀念堂に、やはり大学生たちが集まり、座り込みやハンストを展開する事件が起きていた。

 野百合が、台湾の固有種であり、春にその白い花を咲かせ、純血や生命力の強さなどを象徴することからその名が付けられた「野百合学生運動」は、台湾民主化が本格化する端緒となった学生運動として現在でも語り継がれている。

 余談だが、この運動に台湾大学の学生として参加していたのが、前台中市長の林佳龍だったり、桃園市長の鄭文燦だった。

 1979年に高雄で起きた民主化を求めるデモ参加者と警察が衝突した「美麗島事件」では、現在も総統府秘書長として蔡英文総統を支える陳菊(前高雄市長)や呂秀蓮(元副総統)らが逮捕された。そして彼らの弁護人となったのが、陳水扁(元総統)をはじめ、謝長廷(駐日代表)や蘇貞昌(元行政院長)だった。

 そう考えると、台湾における社会運動はのちに政界で活躍する人材を生み出すひとつの契機となっていたことが窺える。

 実際、ひまわり学生運動の参加者が中心となって政党「時代力量」が結成され、現在も第3政党として立法委員を輩出している事実が証明している。


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