李登輝が進めた台湾の民主化の陰には、日本教育によって培われた、揺るぎない信念と「公」のために尽くさなければならないという日本精神の存在があったことはこれまで書いてきた通りだ。(連載:日本人秘書が明かす李登輝元総統の知られざる素顔)
とはいえ、日本教育によって培われた李登輝の日本精神だけで台湾の民主化が成功したかというと、そこには疑問が残る。台湾の人々に民主主義と自由を経験させたかった、という李登輝だったが、自分の信念を貫くだけで民主化が推進できるほど甘くない。なにせ、相手は戦後50年近くにわたって台湾を牛耳ってきた独裁政権の国民党なのだ。
「金」でみんなに辞めてもらった
党内には長年にわたって累積してきた様々な既得権益があった。その最も代表的なものが国民大会の議席である。国民大会は、五院(中華民国は五権分立)の上に置かれ、政府を監督するとともに、憲法改正などの権限を持つとされていた。中華民国は1912年に中国大陸で成立していたから、国民大会には中国各省から数名ずつの国民代表が選出された。
第二次世界大戦が終わり、再び国共内戦に突入した中華民国は敗れ、国家ぐるみで台湾へ移転してきたものの、「中華民国と中華人民共和国は未だに内戦中である」というレトリックのもと、「動員戡乱時期臨時条款」を公布、憲法を停止して国家総動員で「中国大陸を取り戻す」と息巻いていたのだ。
そのため、戦後数十年にもわたって国民代表は改選されることもなく、同じ人間が居座る事態が続いた。憲法が停止されている非常事態なのだから、選挙も行われないわけだ。彼らは「万年議員」と呼ばれ、高額の禄を食み、特権を享受する姿勢に批判が高まっていた。
台湾の民主化に着手するにあたって、総統の李登輝がまず手をつけたのが「動員戡乱時期臨時条款」の撤廃と国民代表の退任だった。「動員戡乱時期臨時条款」は、中華民国こそが中国の正統政府であり、中華人民共和国は「反乱団体」だと規定するものであったから、まず李登輝はこれを撤廃するよう国民大会に働きかけた。いくら総統といえども、国民大会が制定したものは国民大会でなければ撤廃させられない。民主化を念頭においた李登輝はここで法治主義的な手続きを重視したのだ。
続いては、国民大会代表の退任である。李登輝は国民代表のひとりひとりを自宅に訪ね、「どうか国家のために国民代表を辞めてくれないか」と頼んでまわった。総統自らやって来て頭を下げることに気をよくしない人間はいない。
それに加えて、当時としても破格の退職金と、高利の年金待遇を約束して、全員が退任することに同意してくれた。今でも李登輝は当時を思い出して笑う。「あの頃は国民党にはまだ金がたくさんあった。その金でみんなに辞めてもらったわけだ」。ここには、李登輝の現実主義的な一面が透けて見える。金でカタがつくのであれば、長々と話し合いをして時間を無駄にせず、一気に解決してしまおうという考え方だ。これによって、国民大会は改選が可能となり、健全な民主主義の土壌がならされたのである。