李登輝の人生を語るうえで欠かすことのできないパートナーがいる。いうまでもなく、夫人の曾文恵だ。二人は1949年2月9日に結婚、今年70周年を迎える。
曾文恵は李登輝と同じく、台北北部の淡水郊外にある三芝の生まれだ。ともに素封家として地元で知られた李家と曾家だったから、李登輝と三つ年下の曾文恵は半ば許嫁のような関係で育ったという。
李登輝が日本統治時代の教育を評価して「日本が理想的な日本人を作ろうとして出来上がったのが、李登輝という人間だ」と自負するように、曾文恵もまた同じ教育系統のなかで育った。
私から見れば、李登輝が日本精神を体現した人物だというならば、李登輝夫人の曾文恵は古き良き日本の女性に求められてきた教養や立ち居振る舞いを身につけた人だと感じる。そんな李登輝夫人の素顔が垣間見えるエピソードをいくつか紹介したい。
「和歌」を詠んで思いを伝える
2014年9月、李登輝夫妻は総統退任後6回目の訪日を果たし、大阪・東京・北海道を訪れた。大阪から東京までの移動は新幹線を利用した。東京でお会いすることが決まっている、李登輝の親友、葛西敬之・JR東海会長(当時)に敬意を払ってのことだ。
実をいうと、李登輝が訪日して移動する際には、大きな荷物が伴う。身の回りのものだけでなく、お会いする方々に差し上げる贈答品などを台湾から持っていかなければならないし、反対にお土産としていただくものも少なくないからだ。
訪日のスケジュールを調整する責任者の私としては、飛行機のほうが多少楽なので(空港で預けてしまえば、到着地で受け取るだけ)、航空機利用を考えていたのだが、スケジュール草案を李登輝に見せたところ「今回は葛西さんにも会うだろう。せっかくだから新幹線に乗って東京に行こうじゃないか」という一声で決まったのだ。常に相手のことを重んじ、どうすれば喜んでもらえるかを考えている李登輝らしい判断だった。
そして新幹線に乗車中のこと。私は李登輝夫妻と通路を挟んで斜め後ろに座っていたのだが、ふと見ると曾文恵が一心不乱に何かを指折り数えている。見ていると、何かをつぶやいては指折り数え、手元のメモ帳に書き付けている。
なるほど、久しぶりの日本旅行の思い出を和歌に詠んでいたのだ。当時、2009年に訪日したきり、李登輝夫妻には5年間、日本を訪れる機会がなかった。久しぶりに家族も交えて訪れた日本の風景や気持ちを和歌に綴ったに違いなかった。
ホテルの客室へ入り一段落したあと、私は尋ねた。「奥様、さっき和歌を詠んでらっしゃったでしょう。いかがでしたか」と。私としては作品をちょっと見せていただきたいという思いも込めて尋ねたつもりだったのだが、曾文恵に先回りして答えられてしまった。「あら、早川さん見てたの(笑)。なかなか上手に詠めなくてまだお見せできないわよ」。
日本統治の時代、和歌を詠むことはひとつの教養の証だった。特に良家の子女たる曾文恵にとっては、身につけるべき当然の教養であっただろう。