李登輝はさらに郝柏村を行政院長へ大抜擢した。これは郝柏村からすれば「痛し痒し」だっただろう。大出世には違いないが、ますます軍の現場から遠ざかる。これは李登輝がそれまで学んだ中国人の操縦法を使ったものだ。「中国人は出世が嬉しくてたまらない。でも軍からは離れるし、軍事会議にも出られない。嬉しい反面、郝柏村の軍に対する影響力はますます小さくなっていったんだ」。
それからまもなく、立法院(国会)が改選されることになった。新しく成立した立法院は、総統の指名による行政院長を任命しなければならないが、李登輝は郝柏村を行政院長に指名しなかった。指名しなければ行政院長に居座るわけにはいかない。官邸で「次はあなたを行政院長には指名しない」と告げた際、郝柏村は顔を真っ赤にして怒り狂ったそうだ。
こうして、軍部を自らの支配下に置き、牛耳っていた郝柏村は、出世することで軍部から離され、最終的には牙を抜かれるが如く、その影響力を奪われた。軍では民主的な人事が行われるようになった。こうして李登輝が設定した「党の軍隊を国家の軍隊にする」という目標が実現したわけである。
李登輝にとっての「政治の先生」
李登輝が民主化を進めたその信念の基礎には、日本教育による「公のために尽くす」という日本精神があった。しかし、それだけで猪突猛進に民主化を進めただけでは、国民党の抵抗勢力に遭い、志半ばで挫折していただろう。
日本精神とともに、中国人を如何にしてコントロールするか、権謀術数を学んだ蒋経国学校の存在が、台湾民主化の成功のカギであったといえる。李登輝は今でも蒋経国を「政治の先生」と呼び、尊敬していることがその発言からもうかがえる。
もちろん蒋経国はその評価において負の面もあることは事実だ。しかし、李登輝にとって、蒋経国の教えがなければ、あの国民党内部にあって批判をかわし、民主化を進めることはできなかったという思いもあるだろう。そうした意味で、李登輝が民主化においてその手腕を存分に発揮できた裏には、蒋経国総統の存在も大きいのだ。
1977年栃木県足利市生まれで現在、台湾台北市在住。早稲田大学人間科学部卒業。大学卒業後は、金美齢事務所の秘書として活動。その後、台湾大学法律系(法学部)へ留学。台湾大学在学中に3度の李登輝訪日団スタッフを務めるなどして、メディア対応や撮影スタッフとして、李登輝チームの一員として活動。2012年より李登輝より指名を受け、李登輝総統事務所の秘書として働く。
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