李登輝が「中国人の考え方」を学んだ場所
こうした一連の民主改革を行うには、党内部の批判をかわすべく、細心の注意を払いながら進めていかなければならない。それには、中国人の発想や思考を理解していなければならない。李登輝はそれをどこで学んだのだろうか。
それは李登輝曰く「蒋経国学校」であった。そもそも農業経済学の若きスペシャリストとして政治の世界に入った李登輝は、もちろん政治経験はゼロである。そんな李登輝に対し、蒋経国は、李の職掌と関係ないような会議であっても「出席するように」と言い渡した。李登輝は会議の前に資料を見ながら、その結論を予想する。学術的に考えればこういう政策になるだろう、と予め考えながら会議に臨んだのだ。
ところが、会議はいつも李登輝の予想とは異なる結果となった。そんなことが何度も続き、蒋経国の発言を注意深く聞いていた李登輝は、ハタと気付く。蒋経国は、普通に考えればAという結論になるところを、政治的な様々な条件を加味してBという結論を導いていた。つまり、学術的にはAという結論が正解でも、政治的にはBが正解なのだ。政治は、議論に勝てば終わりではなく、あらゆる人々の利益を最大公約数的に実現させなければならないということを学ぶとともに、中国人を如何にしてコントロールしていくかを身につけたのが、まさにこの蒋経国学校だったのである。
「党の軍隊」を「国家の軍隊」に
民主化に着手した李登輝は、政権人事においても人々が驚くようなことをしてのけた。蒋介石や宋美齢といった国民党中枢に近く、これまでずっと軍部を掌握して来た参謀総長の郝柏村を国防部長(国防大臣)に抜擢しただけでなく、次の組閣ではなんと行政院長(首相に相当)に昇格させたのである。
郝柏村の横暴ぶりはもちろん台湾社会でも批判の的だった。その人物を国防部長どころか、内政の要である行政院長に据えるとは、初の台湾人総統となった李登輝に期待した市井の人々からみれば「李登輝、お前もか」という心境だっただろう。組閣人事が発表された翌日、ある新聞は社説にただ「無言」という文言だけを掲載して抗議の意を表した。開いた口がふさがらない、ということであろう。
ところが李登輝の真意は違った。李登輝が設定した大きな目標は「これまで党の軍隊だったものを、国家の軍隊に変えなければならない」であった。郝柏村は故蒋介石総統の夫人だった宋美齢の寵愛をかさに、三軍をいいように牛耳っていた。そこで李登輝はまず、郝柏村を国防部長に抜擢した。
国防部長は出世ではあるものの、軍の現場とは離れる。李登輝によれば「軍事会議がどうの、戦術がどうの、と言っているよりも、書類にハンコをつくのが国防部長の仕事」なのだそうだ。
このとき、宋美齢は李登輝をわざわざ訪ねて「台湾海峡がきな臭いこの時期に、郝柏村を参謀総長から外すのはやめてくれ」と懇願している。宋美齢からすれば夫の蒋介石亡き今、軍部を掌握する郝柏村の存在こそ「党への影響力の源」だったのではあるまいか。これを李登輝は一蹴している。今日でもそのことを振り返るとき、李登輝は憤りを隠さずに言う。「いくら元総統の夫人だと言ったって、なんら権限などないんだ。そんな人間がクチバシを挟んでくる。時代遅れな発想だなぁ」。