李登輝が政治の世界に入ったきっかけは、農業経済の学者として白羽の矢が立ったからだった。戦後、疲弊した台湾の農村を復興させるため、米国からも支援を受け「中国農村復興聯合委員会」が設立されたが、通称「農復会」と呼ばれるこの組織でその研究成果を存分に発揮していたのが李登輝だった。その傍ら、台湾大学で教鞭を執り、米国にも二度留学を果たしている。
農業経済学に関する論文で、全米最優秀賞を受賞して凱旋帰国した新進気鋭の学者に、国民党の後継者になることが決まっていた蒋経国が目をつけないはずがなかったのだ。
「あなたにやらせると決めたんだ」
蒋経国の引きによって政治の世界に入った李登輝だが、李登輝が今に至るまで「蒋経国は政治の先生」と尊敬してやまないことは以前にも書いた。学術や研究の世界一辺倒でやってきた李登輝にとって、政治の世界はまた勝手の異なるものだった。そんな李登輝を、蒋経国は水面下で支えるとともに、その能力を買って台北市長や台湾省主席へと抜擢、最終的には自らの右腕となる副総統に据えたのだ。
ただ、李登輝にとって大きな問題があった。
1984年2月、国民党の中央委員会の席上で、蒋経国が「李登輝同志を中華民国第7代副総統候補とする」と宣言した。この頃、蒋経国は体調が思わしくなく、寝たり起きたりの毎日だったという。この日の会議でも、総統専用室で臥せっていた蒋経国が李登輝を呼び寄せ「あなたを副総統に指名するから」と伝えたそうだ。
それに対し李登輝は「私では力不足です。副総統の職務は荷が重すぎます。私を買いかぶりすぎです」と答えたものの、蒋経国ははっきり「あなたにやらせると決めたんだ」と言ったという。そこで李登輝は「ありがとうございます。これからは副総統として総統を助けていきます」と、重責を担うことを引き受けたのだ。
「副総統の指名」と「神のお告げ」
その一方で李登輝は「正直弱ったな、と思った」そうだ。というのも、李登輝は30代半ばでキリスト教の洗礼を受けていたが、あるとき夢を見た。
「お前は60歳になったら山へ入り、人々を伝道するのだ」と。
これは神が自分に告げた使命だと悟った李登輝は、以来、60歳になったら山の人たち、つまり日本時代は高砂族と呼ばれた原住民の人々に伝道活動をしようと決意したという。
夢を見ただけで、と思うかもしれないが、もともと李登輝には原住民の人々とも縁があった。台湾大学の助手時代、大学の実験林や牧場が台湾中部の渓頭や霧社の付近にあったため、管理のために長く逗留したこともあった。近くに住んでいるのは原住民の人たちばかり。平地に暮らす人々より一層貧しいながらも、心温かい原住民の人々との交流がここで生まれたことが、後に「山へ入って伝道を」と決意する後押しになったのだろう。
事実、李登輝は総統在任中の1994年、それまで「山地同胞」などと呼ばれて来た人々を、正式に「原住民」と称することを決め、憲法にも明記するよう改正した。
また、時には「この台湾という島にもともと住んでいたのは原住民の人々だ。彼らこそが最初の台湾の主人なんだ」と発言したこともある。若き頃に原住民と密接な交流を持ち、彼らを尊重していた李登輝だからこそだろう。
話を戻すと、蒋経国から副総統に指名されたとき、李登輝は61歳だった。李登輝としては「そろそろリタイヤして伝道に携わろう」と思っていたという。ところが、あにはからんや、蒋経国から副総統の指名を受けてしまった。これを拒むことは出来ない。とはいえ、敬虔なキリスト教徒である李登輝にとって「60歳を過ぎたら山へ」という言葉は「神のお告げ」にも等しいものだ。