2024年4月26日(金)

経済の常識 VS 政策の非常識

2011年11月25日

 府の他の職員は、こんな酷い目には遭わないのだから、教員だけに厳しくするのは不公平でもある。さすがに橋下知事も、「(5%と)数を決めるのは確かに乱暴。絶対評価に直す代わりに審査を厳しくする」と変えたようだ。

 これまで、セクハラ教師や授業をしない教師も辞めさせることができなかったのは事実で、それを改めさせるのは良いが、あまりに極端なことをするのは混乱が大きいだろう。

 すると、最も大きな問題として残るのは、生徒の学力評価と教師の評価を結びつける考えだろう。しかし、そもそも生徒の学力の大きな部分は、子ども自体の素質と家庭環境で決まってしまう(小塩隆士・北條雅一著『学力を決めるのは学校か家庭か』財務省財務総合政策研究所、2011年4月)。

 人々は、理想の教師に会えたことで、貧しい子どもやぐれそうになった子どもが勉学意欲に目覚めたり、まっとうに生きる道を選んだりするという話が大好きだが、美談は数が少ないからこそ美談なのである。学校のできることはそもそもそれほど大きくはないのだ。

 学校の学力テスト公表は、下位校に烙印を押す行為かもしれない。しかし、多くの府民は、どの学校の学力が低いかをすでになんとなくは知っている。下位校の明確な順位を明らかにすれば、そこからどれだけ引き上げることができたかを認知することができる。なんとなくでは分からないことが分かる。

 確かに、ただ序列を付けられることを学校が嫌がることは分かる。しかし、橋下知事は「成績を全部オープンにして、平均より点数が低い地域に金と人を投入して平均点を上げる方がいい」と言っている。これはイギリスのブレア政権が行ったことだ。

サボられてきた教育効果の検証

 もちろん、成績の向上と教師の評価をリンクさせることは難しい。そのような政策を行っている学校では、先生が生徒の解答を書き換える、答えを教える、成績の悪い生徒を休ませるなどの不正行為がなされることは珍しくない。しかし、だからと言って、評価が難しいから評価しないというのはおかしい。

 そもそも、これまでの教育論議には、証拠に基づいて議論しようという姿勢がまったくなかった。公立高校の無償化、35人学級制、教員養成課程の6年制化などの政策についても、それで子どもの学力向上など、どのような成果が上がるかを実証的に議論する姿勢はまったくなかった(赤林英夫・荒木宏子「『検証なき教育改革』を繰り返さないために」〈『季刊政策分析』11年5月号〉)。

 教育関係者は、政治が恣意的に教育に介入すると批判するが、教育関係者の政策論は、そうなれば良くなるという根拠のない思い込みに基づくものにすぎない。少人数学級で教育効果が上がるかどうかは、本来調べることができるものであるにも関わらず、文部科学省は、このようなデータを収集することがなかった。

 教育が政治の恣意を嫌うなら、教育も思い込みを捨てて、証拠に基づく教育政策という考えを受け入れるべきだ。大阪の教育維新が、このきっかけになれば良い。

関連記事 : 「大阪都構想は大阪をどう変えるのか」上山信一(慶應義塾大学教授)

◆WEDGE2011年12月号より


 




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