2024年4月26日(金)

佐藤忠男の映画人国記

2012年9月7日

 歌舞伎と同じように軽演劇も東京のものと言っていいだろう。とくに浅草が本場である。一時期新宿にも専門の劇場ができたが大正時代からずっと続いてやっていたのは浅草だ。そこに通ってファンになり、とうとうそこの芸人に弟子入りするに至るというほどに密着するのは東京でも東の邦の下町の若者ということになる。渥美清が下谷区(現台東区、1928~96年)。伊東四朗も同じく下谷区。そして北野武は足立区である。

 日本の映画演技はじつに多種多彩な演劇流派によって育成された俳優たちをごちゃまぜにしたところから生み出されているが、なかでいちばん風格の大きさと重厚さを大事にする部分は東京の築地あたりの歌舞伎座から丸の内の帝国劇場あたりを主な仕事の場とする人々によって、逆にもっと軽い調子の部分は浅草の雑踏に吸い寄せられてきた東京の下町の人々のセンスを結集して出来たと言えるかもしれない。

 新劇もまあ、その主な部分は東京で出来たものだが、これはその地元の人々の集まりというのではなく、全国から集まった学生たちが築地小劇場や各大学の演劇部などでそれぞれにグループをつくってやったものだから地域性を見出すことは難しい。ただ劇団にはそれぞれ特色がある。文学座は戦前の日本の新劇が政治イデオロギー的でありすぎたと考えて、もっと文学性を大事にしようという立場を鮮明にしていた。東京出身で文学座で修業した俳優たちというと、まずは北区出身の芥川比呂志(1920~81年)。「雁」(1953年)など、学生だというだけでエリートとしてのオーラを発する存在に見えた。港区の芝高輪の出身で線の細い二枚目であり、今井正監督の「にごりえ」(1953年)の明治の大店の気取ったどら息子の役がじつによく似合った仲谷昇(1929~2006年)。私のイメージではこの2人は都会人そのもののような俳優である。シャイでデリケートで何気なく気取っている。しかしそれだけが東京人らしさではない。加藤武は中央区というより魚河岸の中卸業の店の息子であり、そういうとあの豪放なユーモアもやはり江戸以来の都会人のひとつの典型かもしれない。下谷は本郷出身の金子信雄(1923~95年)など、「仁義なき戦い」シリーズのやくざの親分役の実に老獪な笑いでアッと言わせたが、これもやはり都会人的なものの一面かもしれない。

 俳優座養成所は非常に多くの優秀な俳優を新劇だけでなく映画やテレビにも送り出した俳優学校である。東京出身の俳優に限っても、宇津井健、小沢昭一(世田谷区)、仲代達矢(目黒区)、夏八木勲(足立区)、原田芳雄(足立区、1940~2011年)など芸達者が多い。舞台と映画を往復していて、難しい芝居と大衆的な映画を常時くり返していることでその芸の柔軟さが保障されているのかもしれない。

 1970年代になると大手新劇団を押しのけるようにしていわゆるアングラ劇団が多数現れ、型破りのお芝居を競うようになる。そこから現れたひとりに劇団東京乾電池のリーダーだった柄本明(中央区)がいる。

 大衆演劇でひたすら男の男らしさを追求してきた劇団に新国劇があるが、そこから男らしさの塊みたいな緒形拳(新宿区、1937~2008年)が生み出されたあとで解散した。


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