障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド

2015年8月25日

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 「障害と共に生きる~社会で活躍するチャレンジド」の第1回は、日本パラリンピアンズ協会会長の河合純一さんをお迎えしました。河合さんは5歳で水泳を始め、視覚障害者水泳選手として1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会、2000年シドニー大会、2004年アテネ大会、2008年北京大会、2012年ロンドン大会など、パラリンピック6大会に連続出場を果たし、通算獲得メダルは金5、銀9、銅7、合計21個(日本人最多)という日本の障害者アスリートの第一人者といえる存在です。

視覚障害者として生きる

初瀬:河合さんは華々しい経歴で日本のパラリンピアンの象徴的な方ですが、まず最初に障害についてお伺いします。

河合純一さん。1975年生まれ。一般社団法人パラビアンズ会長。バルセロナからアトランタまで5回連続でパラリンピックに出場。

河合:障害者認定を受けたのは中学2年生の時です。もともと弱視で中学1年くらいから教科書の文字は虫眼鏡を使って読んでいました。不自由ですが文字が読めたので当時は普通校に通っていました。

初瀬:河合さんは中学を卒業すると盲学校に進学されますが、その際、何か挫折感のような思いはあったのですか? 

 僕の場合は大学時代に視覚障害者の手帳を取って、マッサージ師の学校を勧められたときは正直ショックでした。当時は弁護士になるという夢がありましたので、それが絶たれたうえに、人並みな選択肢もないのかという絶望感でいっぱいでした。
勉強家だった河合さんとしては、盲学校に通うことに葛藤があったのかなと思うのですが、どうでしたか?

河合:水泳で「うちの高校に来ないか」と誘ってくれた高校もありましたが、私も家族も、その先がどうなるのかを考えて盲学校(筑波大付属盲学校高等部)へ行くほうが将来のためになるだろうと判断しました。

 進学先が盲学校だからという挫折感のようなものはありません。隣の町の高校に進学したのか、東京の学校に行ったのか、そんな違いだけです。

 大きな意味があったのは東京に出てきたことによって、早い時期にパラリンピックに出合えたことです。

初瀬:とは言いましても、初めての寮生活ですし、点字はわからないし。盲学校の生活はどうでしたか?

河合:入学した年は点字がよくわからないのであまり成績がよくなくて(笑)。でも、勉強自体は苦ではなかったです。やらなきゃいけないと思って頑張っていました。

 それに水泳部の練習が楽しかったですね。学校が終わって、寮に帰って、筋トレして、夕ご飯を食べてから、そのあと泳ぎに行くという毎日でした。帰ってくるのは夜の9時半から10時くらい。それから勉強して、12時くらいに寝るという生活でした。

初瀬:高校生の時からパラリンピックに出場しているのですが、いつ頃から意識されていたのですか?

河合:高校(1991年)に入ってからパラリンピックのことを知りました。91年は翌年開催のバルセロナ大会の日本代表選考会があると聞いたので、まず、その選考会に出るための大会に出場したところ日本記録が出たのです。その後、日本代表選考会に出て、そこでトップ通過してパラリンピック出場を決めました。

初瀬:高校生ながら、すでに日本記録を出していたということですが、バルセロナ大会の成績はどうでしたか?

河合:銀2と銅3です。あの大会で優勝できなかったことが悔しくて、その後の頑張りに繋がっていったのかなと思っています。

 実は17歳の頃から、同じスポーツなのにオリンピックとパラリンピックが、厚生労働省と文部省に分かれているのはおかしいと思っていました。

 たとえばなぜユニフォームが違うの? とかですね、細かいことまでいろいろ質問しているうちに、その違いに行きついたのです。98年の長野大会(冬季)からそれも変わりました。

初瀬:高校時代にその問題意識を持っているところが河合さんらしい。それが今の仕事に繋がっていると考えて良さそうですね。
 

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