2024年4月26日(金)

Wedge REPORT

2016年3月22日

水海道

 常総市の中心地区「水海道」の地名について、柳田国男は「水海道古称」(1951年)で、「御津カイト」の意で「地方権力専用の港湾だった一画」と述べたが、この説はかなり見当違いである。カイトという地名用語は、のち柳田の弟子筋の東京教育大・直江広治教授らによる包括的な研究があるが、カイトは「部落・区画」といった意味の用語である。つまり、ミツカイトは「水に囲まれた一画」という地名で、今回の豪雨災害はまさに、それを目に見える形で実証した。

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 江戸前期の1629年、それまで合流・分流しながら湿地帯に流れ込んでいた鬼怒川と小貝川が分離され、ほぼ現在の流路に固定された。往古の騰波ノ江(飯沼)は美田と化し、数千町分の飯沼新田が開発された。さらに小貝川下流域では江戸前期、常陸谷原(やわら)3万石・相馬谷原2万石の新田が開発された。つづいて、利根川の瀬替えという大土木工事が行われた。利根川は古来、現・埼玉県東部から古利根川・中川などいく筋にも分流して東京湾に注いでいた。その東側には渡良瀬川が足尾山地から流れ下り、太日(ふとひ)川(現・江戸川)となって東京湾に注いでいた。

 江戸前期の1641年、この2大河川の流路をさらに東側の鬼怒川筋に結び、赤堀川・常陸川経由で現・千葉県銚子市に流出させる瀬替え工事が完工した。以後、江戸市街の洪水被害が減少、現・埼玉県東部の広大な低湿地が水田化された。また、銚子から利根川を遡り、関宿から江戸川経由で行徳・日本橋を結ぶ内水面航路が開かれた。だが、流水量の多い利根川に注ぐ形になった鬼怒川は、その分だけ水はけが悪くなった。

 河川は一般に、源流部の山地では浸食力が強く、傾斜が緩やかな中・下流では堆積作用が働き、年々、河床に土砂が積もる。結果、河川の中・下流部の河床はしだいに高くなり、両岸の堤防(自然堤防も人工の場合も)は嵩上げされて天井川状になる。今回同様の集中豪雨があれば当然、越水・決壊の危険が増す。

もともと関東地方には池や沼が多い(iStock)

 関東平野には、ほんの数百年前までいたるところに沼地が点在していた。利根川・荒川・太日川などが乱流し、海からはるか離れた内陸だから水はけが悪く、周囲より低い土地には大小の水溜りが広がっていた。2011年の東日本大震災では、関東地方の海岸だけでなく、河川沿岸や内陸の旧・沼地跡でも、あちこちで液状化現象が発生した。付近に神田川の支流である妙正寺川の流れる東京都中野区沼袋など、沼のつく地名は関東の至るところに存在する。

落合

 落合は「水が合流する所」のことで、農村ではごくありふれた地名。水田稲作にとっては有利な条件だが、豪雨の時には水が集中して畦(あぜ)が飛ぶなどの災害が起きる。東京都新宿区の落合は都心に近い閑静な住宅地で、およそ災害とは無縁の地のはずだった。ところが1999年7月21日、新宿区北部に集中豪雨があり、神田川に妙正寺川が合流する下落合3丁目を出水が襲った。そして民家の地下駐車場に住民1人が閉じ込められ、溺死するという惨事が起きた。


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