チャイナ・ウォッチャーの視点

2016年7月28日

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城山英巳 (しろやま・ひでみ)

時事通信社外信部記者

1969年生まれ、慶應義塾大学文学部卒業後、時事通信社入社。社会部、外信部を経て2002年6月から07年10月まで中国総局(北京)特派員。 外信部を経て11年8月から2度目の北京特派員。11年、早稲田大学大学院修士課程修了。現地での中国取材は10年に及ぶ。16年5月に帰国し、現在外信部記者。近著に『中国 消し去られた記録〜北京特派員が見た大国の闇』(白水社)、著書に『中国臓器市場』(新潮社)、 『中国共産党「天皇工作」秘録』(文春新書、「第22回アジア・太平洋賞」特別賞受賞)、『中国人一億人電脳調査』(文春新書)がある。14年に戦後日中外交史スクープで13年度「ボーン・上田記念国際記者賞」を受賞。

「改革・開放」と共に歩む

 炎黄春秋が創刊された91年以降、最高権力者・鄧小平は89年の天安門事件による危機を乗り切るために改革・開放の大号令を掛け、総書記に抜擢された江沢民も市場経済を推し進めた。江沢民時代は今から考えれば、メディア界にとって「良き時代だった」と、改革派知識人は口をそろえる。

 炎黄春秋はまさに「改革・開放の産物であり、改革・開放は、炎黄春秋の生存空間を切り開き、我々も改革・開放のため全力で助力した」(楊継縄・元副社長)。創刊10年の2001年2月には、習近平氏の父親で開明的な指導者だった習仲勲元副首相が同誌のために筆を取り、「《炎黄春秋》弁得不錯」(『炎黄春秋』の発行はいいことだ)と記した。

 中国ではメディア運営に主管機関が必要になる。炎黄春秋の場合、中央軍事委員会委員、国防次官だった蕭克・上将が執行会長を務めた「中華炎黄文化研究会」という学術民間団体が主管機関となり、蕭氏が同誌を強く支持したため党中央宣伝部なども人事・財務面に介入せず、一定の独立を保てた。国家から補助や雑誌の買い上げが一切なかったことも独立性を維持するのに役立った。

 しかし胡錦濤・温家宝時代に入ると、党中央宣伝部による管理が強まった。05年には、胡耀邦元総書記がかつて毛沢東を批判したことを回想した胡啓立・元政治局常務委員の文章、07年には天安門事件で失脚した趙紫陽を称賛する田紀雲元副首相の文章を掲載し、波紋を呼んだ。炎黄春秋は、規制を強めた当局との妥協も余儀なくされ、解放軍の国軍化、三権分立、六・四(天安門事件)、国家指導者・家族の問題、多党制、法輪功、少数民族・宗教問題、憲政(以前は劉暁波氏=獄中のノーベル平和賞受賞者=の問題)の八つテーマには触れないと当局側と申し合わせた(洪振快「前任執行主編親述:《炎黄春秋》之死」『端傳媒』2016年7月17日)。

 12年11月に習近平が総書記に就任すると、炎黄春秋に対する統制は一気に加速した。炎黄春秋副社長・編集長を務めた楊継縄氏は、古巣の国営通信・新華社からの辞任要求が強まり、15年7月に辞任したが、その際に同誌編集幹部らに宛てた「告別の手紙」が話題になった。楊氏は、手紙とともに監督当局・国家新聞出版ラジオ映画テレビ総局への陳述を記したが、陳述によると、同総局は同年4月、1〜4月号に掲載した86本の文章のうち37本については事前検閲を受けるべきだとして「規則違反」を是正するよう求める警告書を送ってきたという。これに対して楊氏は「我々は長年、毎号2本の文章を事前報告したが、14年はそのうち9割がボツになったり、返答もなく無視されたりした」ことを明らかにした。

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高まった共産党当局からの圧力

 炎黄春秋は毎年春節(旧正月)明けに、北京で「新春聯誼会」という懇談会を開催している。70代、80代、90代の老幹部とともに、中堅改革派知識人ら200人以上が集まる。このうち選ばれた20人ほどが登壇し、10分ほどの挨拶を行い、昼食を挟んでテーブルごとに熱い議論になるのが恒例だ。同誌13年4月号は、この年の2月末に開かれた新春聯誼会で登壇した老幹部や改革派知識人の発言を掲載。政治体制改革、言論の自由、憲政、司法の独立などを求めた内容に対して「最高指導部・共産党政治局常務委員会で炎黄春秋への不満が出た」(改革派学者)。

 2008年に同誌を支えた蕭克氏が死去すると、杜導正氏に対しても高齢を理由に社長を交代するよう求める当局の要求は強まった。

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