迷走する日本の「働き方改革」への処方箋

2019年6月5日

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立花 聡 (たちばな・さとし)

エリス・コンサルティング代表・法学博士

1964年生まれ。早稲田大学理工学部卒。LIXIL(当時トステム)東京本社勤務を経て、英ロイター通信社に入社。1994年から6年間、ロイター中国・東アジア日系市場統括マネージャーとして、上海と香港に駐在。2000年ロイター退職後、エリス・コンサルティングを創設、代表兼首席コンサルタントを務め、現在に至る。法学博士、経営学修士(MBA)。早稲田大学トランスナショナルHRM研究所招聘研究員。

 

日本企業が教育に投資できるワケ

 外資系企業では、従業員の教育研修を投資と見て、つねにその効率性や生産性をモニタリングしている。1人の従業員に一定の教育投資を投下すると、必ずその従業員の貢献・寄与から生まれる利益(リターン)を計測する。固定資産の投資は、減価償却が付きものだ。一度投資した資産について、段階的に費用を分割計上し、その資産の価値を徐々に減額させる。

 従業員の教育研修もこれに似ている。教育研修に投資したのはいいが、その減価償却が終わる前に、従業員が会社を辞めた場合、会社に損害が出てしまう。建物や工場、機械・設備、車両といった定着型の固定資産と違って、人間は特定の企業に縛り付けられることなく、自由に流動できるからだ。

 教育投資のリスクが高い。投資された従業員が会社を辞めた場合、会社は再度人材を募集し、教育しなければならない。その繰り返しは単に投資リスクを積み上げるだけであり、リスク低減の方策はかなり限られている。

 言い換えれば、従業員への教育投資は、「流動的固定資産への投資」である。管理会計的に考えると、その教育投資を「投資」としてではなく、一種の変動費として計上したほうが少してもリスクが低減できるわけだ。つまり、戦略的に「長期的視点」も持たないし、「広義的人間性・一般能力の向上」の分野にもタッチしないのである。研修や教育費はあくまでも、スポット的な変動費として淡々と計上していくだけである。「人生を共に歩む」ほど感情的色彩は一切持ち合わせないし、混入される余地もない。

 「Capacity development」という名の通り、会社は従業員のキャパ伸ばしにある程度の教育費をかけても、その見返りとして十分な業務パフォーマンスが認められなければ、残される選択肢は自主的退職あるいは解雇しかない。善悪の判断を抜きにして、一種のメカニズムとして組織のなかに組み込まれた以上、労使間の共同体感覚もそれに付随する感情的色彩もむしろ有益でなく、ときには無益あるいは有害ですらあり、排除されるべきものとなる。

 ここから日本企業の話に入るが、用語を変えたいと思う。これまでは「従業員」という言葉を使ってきたが、ここからは「社員」に切り替える。「従業員」の英語は、「employee」と言い、雇われ者を意味する。しかし「社員」は違う。「company member」である。共同体の存在や連帯感を強く示唆する概念として、感情的色彩を帯びる。

 欧米企業と違って日本企業は、大学を出た新卒者を一斉採用して、「長期的視点」の下で、「広義的人間性・一般能力の向上」の分野も合わせて教育していく。いささか学校の延長であり、人格形成にかかわる機能を企業が引き受ける。これもひとえに、社員の定年退職まで半生以上も付き合っていく労使の「運命共同体」という存在をなくしてあり得ない話だ。であれば、いかなる教育投資もリターンがほぼ確約されている以上、企業は安心して投資できるのだ。

 さらに、その教育投資の大部分は実は、OJTによって行われているのである。先輩が後輩に教えるという、これも非常に日本的な教育方式である。外資企業では一般的にノウハウやスキルは特定の従業員の私有物(無形資産)である以上、競争相手となる他の従業員には安易に教えようとしない。しかし、日本企業は終身雇用制度の下で、このような社員間のスキル的な競争が奨励されていない以上、はじめて実現可能となる。共同体意識が最上位の概念として機能しているからだ。

 それにしても、いくら終身雇用とはいえ、法律ではないし、何ら強制性もない以上、なぜここまで機能できたのだろうか。次回この話をしたいと思う。

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