WEDGE REPORT

2013年6月5日

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児玉 博 (こだま・ひろし)

ジャーナリスト

1959年大分県生まれ。早稲田大学卒業。フリーランスジャーナリストとして、大手総合誌、ビジネス誌で活躍。著書に『日本株式会社の顧問弁護士 村瀬二郎の「二つの祖国」(文春新書)、近著に『テヘランからきた男 西田厚聰と東芝壊滅』(小学館)など。

 山本は後に『私の履歴書』(日本経済新聞)で、入社3年目の山本が当時、開発課長だった小林大祐(後の社長)から呼ばれ、米IBMやレミントン(現・ユニシス)に負けないコンピュータ開発を命じられたときの思いをこう記している。

 「並みいる日本の大企業がいまだに手をつけたことのないコンピュータ開発という大仕事を一体どうやって3人でやるのか、唖然とする思いだった」

 山本自身が“唖然とした”と振り返るように、当時同社にはコンピュータの実績はなく、それどころか技術開発さえもゼロから始めるような状態。コンピュータを開発せよ、との言葉の前に唖然とするのは当然だったろう。しかし、その“突拍子もない”ことに真摯に、そして情熱を傾けた一群の若き技術者たちが、富士通の礎を、国産コンピュータの未来を切り拓いていったのである。富士通が掲げる“夢を形に”という言葉は、まさに“とにかくやってみる”という精神の凝縮に他ならない。

 富士通の若き技術者たちにとって米IBMはまさに仰ぎ見る巨人だった。その巨人に追いつき、追い越せと技術者たちは、昼夜を問わず口角泡を飛ばし、会社に泊まり込んでは研究開発に没頭した。こうして富士通のDNAは日々作られていった。

 90年代、富士通のスーパーコンピュータ(スパコン)は頂点を極める。独仏など欧州の主要国の気象庁、大学、研究機関が次々と米IBMではなく、富士通のスパコンを採用し、欧州市場を富士通が席巻した。しかし、スパコンを安全保障の一分野と捉え、スーパーコンピュータ法まである米国だけは富士通のスパコンは輸出さえできなかった。

 けれども、90年代末、財務状況の悪化から、富士通は巨額な投資が必要なスパコン開発から、確実な利益が見込める汎用技術へと経営の舵を切る。それとともに、社内にあった“世界一の技術しか売らない”といった気風にもうっすらと埃が積もり始め、経営の迷走も続いた。

 文部科学省が国家プロジェクトとして次世代スパコン「京」の開発に乗り出したのは06年。このプロジェクトへ参画するか否かを巡り富士通の経営会議では侃侃諤諤の議論が闘わされた。

富士通にとって「京」とは何か

 手元にある「次世代スパコン 経営幹部報告」と題された資料には、「京」の開発に参画すべきかどうかを議論した会議の回数、日時がびっしりと書き込まれている。夥しい議論の末、富士通はプロジェクト参画を決定する。

 スパコン「京」は、世界ランキング「TOP500」(毎年6月と11月に発表)で11年6月、演算速度世界最速を達成した(同年11月も)。

 スパコン「京」の世界最速の称号がほぼ確実視され始めた10年、つまり冒頭の新入社員がエジプト大使館のバザールに参加していた頃だが、スパコンをはじめとする富士通の持つICTでユーザーにどのようなサービスを提供できるか、その最前線に立つ本部長の山田の海外出張が目に見えて増えていった。

 ある時はタイに、ある時はシンガポール、そしてブラジルへ、と。山田は世界を飛び回った。しかも、その多くが“飛び込み営業”というのだから驚かされる。

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