『いわきより愛を込めて』

2016年12月9日

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 では、1日に数分しか作業できないような線量の高い場所で長年仕事をしてきて、健康上の不安はないのだろうか。

 「俺は放管手帳(放射線管理手帳)持ってるけど、35年間で1万6300ミリシーベルトぐらい被ばくしてるんだよ。原発事故の後に現場で被ばくして白血病になったとかいう作業員が労災認定されたけど、あり得ない話だな。俺なんて、この年になってもがんにも何にもならないし、仲間にも白血病になった奴なんてひとりもいないよ。

 でも、復水器の下に大きなコンデンサーがあってさ、その点検作業なんてなると8000工数もあるんだけど、さすがにコンデンサーの下に入って線量の高いスラグ(汚泥)の掃除をするのは怖かったな。

 スコップでスラグを掬ってドラム缶の中に詰めて、掬えないやつは放水して流すんだけど、線量が100ミリぐらいあるから3分ぐらいしか現場に入れないんだよ。だから、300人ぐらいの作業員が交替でやることになる。うちだけじゃ人数が足りないってときは、他の下請け会社に頼んで応援の作業員を出してもらうわけ。

 俺は所長をやってたんだけど、所長自ら線量の高いところに入って作業をしたからさ、部下も納得して、プライドをもって仕事をしていたね。つまり、原発の現場ってのは、男気で成り立っていたわけですよ」

 原発作業のプロは、事故の本当の原因を何だと思っているのだろうか。

「バカ菅だよ。バカ菅が来ることになったから、ベントを遅らせたべ。あれ、普通にベントしていれば、多少空気中に放射能は飛散したかもしれないけど、あんな爆発なんて起こすことはなかったんだ。菅がアホだったんだよ」

 菅とは、言うまでもなく、時の総理大臣、菅直人氏のことである。

あのくらいの放射能じゃなんともない

 Mさんは、前述の通り原発で働く作業員であったと同時に富岡町の住人でもあった。富岡町は福島第一原発のある双葉町と大熊町の南に位置する町であり、町内に東京電力福島第二原発を抱えている。震災直後に全域が「警戒区域」に指定されて、全町民が避難を余儀なくされた。

 Mさんは小学校1年生のときに山形から家族で引っ越してきてから原発事故が起こるまで、実に60年以上を富岡で暮らしていた。最盛期、6LDKの大きな家に孫を含めて11人の家族が暮らしていたという。現在は、いわき市の南端にある勿来町に家を買って、夫婦2人で暮らしている。
 東日本大震災発生から現在に至るまでのMさんの足取りは、大略以下のようなものである。

 「うちは富岡でも標高の高いところにあったから、津波の被害はなかったし、家の中もウイスキーの壜が割れて臭いがひどかった以外、たいしたことはなかったんだ。でも、12日の朝、町の防災無線で『逃げろー』となったわけ。俺は原発で働いていたからさ、あのくらいの放射能じゃなんともないってわかってたけど、家族が怖がるから仕方なく逃げたんだ」

 Mさんたち家族(Mさんと妻と楢葉の工業団地で働いていた長男の3人)は、川内村方面(富岡町の西側、つまり海と反対の内陸部)へ逃げろと指示をされた。しかし、川内村へ向かう道は大渋滞を起こしていた。Mさんと長男はこのままでは身動きが取れなくなると判断して、赤木にさしかかったところで思い切ってUターンを切り、いわき方面へ向かった。

 「12日は四倉の青年の家に泊まって、そこで娘夫婦(乳児を含む4人)と合流したんだけど、翌朝8時のニュースで2号機がドンとなったって聞いてさ、四倉も原発から20キロ圏内だから避難しなくてはダメだとなったわけ。最初は湯本四中に逃げろって言われたんだけど、避難所はもういやだねーってことになって、国道49号線で郡山まで出て、郡山から高速に乗って神奈川県の大和市にいる姉ちゃんのところに向かったんだ。電話は何度かけても通じなかったから、事後承諾のつもりだったんだ」

 途中で次男の家族4人と合流して、車2台で大和に向かった。総勢11名の大所帯である。事故直後はガソリンを手に入れるのが困難だったと聞いたが、Mさんたちは道を間違えたおかげで、偶然にも空いているガソリンスタンドに出くわして給油をすることができたという。
現金なら3000円までしか入れられないが、カードだったら満タンOKと言われたので、2台ともカードで満タンにした。なぜ、カードなら満タンOKだったのか、理由はいまだによくわからない。

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