2024年4月27日(土)

チャイナ・ウォッチャーの視点

2017年3月29日

中国の発展モデルと反腐敗運動の矛盾

  1. 権控(権力にコントロールされた)経済においては、何をやるにも政府の許認可が必要で、そこでは賄賂がその通行証となっており、汚職が、官僚が改革を支持する内的な原動力になっている。
  2. 権益の取引が中国の経済モデルにおける基本的なルールになっており、価格は、その第二順位の決定要因であり、賄賂の多寡が第一の決定要因で、リソースは賄賂の多い方に流れてしまう。
  3. 大部分の国家の投資は、権益の取引を通して権貴資本に転化し、結果として、国家資本主義が、権貴資本主義に転化することになる。
  4. このため、腐敗は、中国の経済モデルの矛盾であり、原因であり、また原動力でもある。
  5. これまでの改革による中国の経済発展の巨大な成果は認めざるをえない。しかしながら、中国の経済発展は、一般大衆の富と環境の犠牲という巨大なコストの上に成り立ってきた。さらに、その原動力は腐敗であり、これが持続可能なモデルであるとは到底考えられない。

この矛盾を突破するにはどうしたら良いか

  1. それは「放権」、つまり、権力、リソースをコントロールする権力を大衆に戻すしかない。こうした権力は本来大衆のもので、中央集権の権力を大衆に戻せば良い。それは、民権、民治、民享を取り戻すということ。
  2. それがなければ、反腐敗をすれば経済に打撃を与え、反腐敗をしなければ社会が乱れる。
  3. 文化大革命という選択肢もあるが、それはしたくないのが我々の総意だ。

 この講演を聴いた私の最初の感想は、公然とここまで言ってしまって大丈夫なんだろうか? ということである。おそらくこうした問題意識は、中国の中枢においても普通に認識されていることなんだと思う。

 企業経営でも、国家経営でも一番怖いのは、問題の本質をしっかり認識できていないことだ。
そういう意味では、この分析を知り、中国問題の根深さを知るとともに、これでしっかり現状認識できていると理解していいのであれば、それは肯定的に捉えても良いであろうということだ。

 「反腐敗をすれば経済に打撃を与える」というのは、要するに、反腐敗をすることにより、官僚の旨味が減って、モチベーションがなくなってしまうので、遵法闘争というか、法律、規定に明確に書かれていること以外は余計なことは一切しないということなのだと思う。確かに、このような傾向は、官僚の「不作為」と最近よく耳にすることがよくある(何かをすれば「汚職」とされ、何もしなかれば「不作為」と言われる、中国のお役人も大変だ)。

 それでも、公の利益のために日々努力する官僚は中国においてもいくらでもいる。ただ、王先生が指摘したいのは、経済モデルという制度面から見ると、いくら一部の英雄が頑張っても、全体としては悪循環になってしまうということを指摘されたいのだと思う。また、この分析を見て、だから「中国は崩壊する」とするのは、短絡的すぎると思う。こうした矛盾を抱えながらでも、ここまで発展してきたのがある意味中国の国力でもあると私は見ている。こうしたリスクを抱えつつも、今後どのように舵取りしてゆくのかを注視して行きたい思う。

 また、王建国先生の言う、民権、民治、民享を突き詰めると、それは中国の民主化の問題まで発展するのかもしれない。とはいえ、まずは、そこまで行かなくとも、政府の権限の民間への移譲から始めて頂ければ、中国の経済もより活性化し、我々外資企業のビジネスチャンスも、増えてくると期待している。最近政府及び有力企業が相当真剣に環境問題に取り組んでいるのも、こうした背景があるのだと改めて認識した。現在の体制を根本的に変えられないのであれば、対処療法でもできるところからやるしかないのだから。

 この制度的な背景は、日本企業の中国市場における戦略にもヒントを与えてくれるポイントではないか。最近、たまたま耳にした話であるが、中国の公道に張り巡らされた交通監視カメラのマーケットにおいては、現在では圧倒的に中国の地場メーカー優勢であるとのことであるが、出始めの頃は日本のメーカーが先行していたとのことである。中国は、権控(権力にコントロールされた)経済であるのだから、こうした公共部門調達ではどのみち地場企業が優遇されるのは決まっているのだから、早めに中国企業との合弁事業に持ち込むとか、技術供与するなどして権益を確保した方が賢いかもしれない。公共事業ではないが、許認可事業である自動車産業では、最初から50:50の合弁が求められているものの、今でも日本の自動車メーカーにとって中国の合弁事業は大事な収益源になっている点は見逃せない。

 最後に、官僚のモチベーションをどう維持するかという点では、日本も似たような問題を抱えているような気がする。先日、日本でも文科省官僚の大学への天下りの問題が批判されていたが、反対に、最近では東京大学の優秀な学生たちの公務員の人気が下がっているとのことであり、賢い学生たちにとって、官僚が決して美味しい選択とは見えなくなっていることようだ。そもそも、官僚に許認可権限がそれほどないのであれば、天下りを規制する必然性もなくなるはずで、程度の差こそあれ、王先生の言う「放権」は、日本にとっても他山の石とする意味もあるかもしれない。「水清ければ不魚住」で行くのか、より透明な「放権」で行くのか、これは日中どちらの国にとっても永遠のジレンマかもしれない。

  
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