2024年4月26日(金)

あの負けがあってこそ

2018年8月21日

 冒頭で記したように消防には陸上での救助と水上での安全性、確実性、迅速さを競う「全国消防救助技術大会」が毎年開催されており、平野は5年連続全国大会に出場し3度の日本一に輝いた実績を持っている。

 「陸上での救助種目と水難救助の種目がいくつかあるのですが、すべては救助を想定した競技で、水難救助の基本的な泳法、生体を用いた救助搬送種目で僕は日本一になりました。競泳とライフセービングが相乗効果を生んだ結果だと思っています」

仕事か、競技か、日増しに大きくなる葛藤

 さらに毎年館山で行われているオーシャンフェスタに参加した際、同じチームになったフィンスイミングの選手に競泳とライフセービングをやっていることを伝えたところ、「足ひれとシュノーケルを付けてクロールを泳ぐ種目がある。やってみないか」と誘われた。

 ライフセービングが競泳の強化になっている実感があったことと「優勝狙えるんじゃないの」という誘い文句に心が動き即決した。

 平野はいろいろなものを取り入れる柔軟な思考の持ち主である。プラスの要素に「楽しそう」が加わればそこにやらない理由はない。

 フィンスイミングにおける平野の種目はビーフィンと呼ばれる片足ずつ履くタイプのフィンで、シュノーケルを付けて泳ぐ種目である。泳力を高めるための要素が詰まっていることからこの種目を選んだ。

 さっそく翌年に行われたフィンスイミングの日本選手権に初出場にして準優勝を果たし、日本代表にも内定した。しかし、世界選手権が行われる8月は「全国消防救助技術大会」への出場が決まっていたためフィンスイミングの日本代表は辞退した。

 「消防救助技術大会は仕事ですから、そちらを優先しましたが、翌2014年は国内で優勝して、アジア大会の日本代表として銀メダルを獲得しました。初めての国際大会ですから、そのメダルはとても重く感じました。帰国して職場の人たちには温かく迎えられましたが、ごく一部に職場を離れることが多くなった僕をよく思わない人たちが出てくるようになってしまったのです」

 一方ライフセービングでは2014年の全日本プール選手権の200m障害物スイムで日本新記録を打ち出し、直後の海の競技会である全日本種目別選手権のサーフレースで2位になり、ライフセービングの日本代表候補のハイパフォーマンスチームに選抜された。

 「全国消防救助技術大会」の前は強化訓練として通常勤務から離れる時間が増える。競泳の大会へも有給休暇を取って出ていた。そこへフィンスイミングやライフセービングの大会や日本代表(候補含む)の活動が重なって、水難救助隊員と競技者としての狭間で葛藤する機会が増えていった。

 「2014年はフィンスイミングで初めての国際大会でメダルを獲得し、ライフセービングでも日本記録を出すなど、この年は僕にとって大きなターニングポイントになっています」

 「アクアアスリートとしての基礎ができた時期でもありますが、競技者としては、もっとしっかり取り組めばフィンスイミングでもライフセービングでも世界で十分戦えるかもしれないという思いが強くなっていきました」

 葛藤は日増しに大きくなっていった。

 「念願の水難救助隊員にもなっていたし、いつかは消防学校の教官になりたいという夢がありました。もともと教員志望だったので消防の中で指導者になりたいと思っていたのです。でも、今しかできないことは何なのかを突き詰めていった結果、僕は競技者としての自分の気持ちを取りました。日本代表として世界と戦えるのは若いうちだけですから」

 使命感を持っていた水難救助隊員が嫌になったわけでも消防という仕事から離れたかったわけでもない。しかし、競技を追求するためには辞めるという選択が最善だと確信した。そこに気づかせてくれたのは職場の人間関係の問題だった。

 平野は仕事と競技を考えるうえで、いいキッカケを作ってくれたと振り返る。

 2015年3月、平野は東京消防庁を退職した。

 「公務員はいろいろ制約のある仕事です。仕事が終わって制服を脱いでも、心の制服までは脱ぐなと言われていました。使命感の反面、息苦しさをストレスに感じていたことも事実です」

 「ですが、これからは仕事に制限はなく、制限されないことを最大限活用すればいいと思っていろいろな仕事にチャレンジすることにしました」


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