2024年4月27日(土)

この熱き人々

2013年7月19日

 日本料理は古臭いと思った村田は、父にフランス料理をやりたいと言った。深く考えた結果というより、あらかじめ決められた進路へのちょっとした反抗だったのだろう。

 「親父はきっと日本料理をやってくれと泣いて頼むと思ってました」

 しかし、そんな軽やかな抵抗は、思いもしなかった展開に村田を追い込んだ。真面目一方で祖父とは全然違うと思っていた父の、予想外の頑固な一面を知らされたのである。

 「『お前なんかアテにしてへんから好きにせえ。日本料理習いに京に来るんやから、フランス料理やりたいならフランスやろ。明日までに金を用意するさかいすぐにフランスに行け』言うんですわ。フランス料理やりたいとは言ったけど、フランスに行きたいとは言うてへんのに。母は『お父さんに謝ってやめとき』って言うてたけどな」

 おそらく父は、息子のボンからの脱皮に賭けたのだろう。千尋の谷に突き落として、そこから自力で這い上がって来いという父の覚悟が見えるような気がする。

 1ドル360円の時代。200万円持たされて、英語も片言、フランス語は全く知らない村田は、かくしてパリに向かうしかなくなった。1泊10フランの屋根裏部屋で、裸電球に粗末なベッドでの生活。「世界ウルルン滞在記」のような日々である。

 「向かいの部屋に住んでたんが、後に名匠アラン・シャペルに認められた上柿元勝(かみかきもとまさる)。朝、コックコートを風呂敷に包んで、レストランの裏口から皿洗いに紛れ込んで就職活動してたんや。断られても賄い飯にはありつく。それで生活繋いでいるの見て、俺はボンやからそこまでのガッツないし無理や。就職探すのも、上から目線やし」

 そんな自分を客観的にかつ厳しく見据えながら、近くのソルボンヌ大学の学食に通ったり、レストランの食べ歩きをして過ごす日々。フランス料理は世界一だと聞かされ続け、日本料理は極東のエスニックとしてしか認識されていないことを知らされる。

 「日本料理も文化的なクオリティーはフランスと変わらへん。懐石というコース料理もあるんや。うちはそれやってんねん。フランスが一番言われると、ついむかついて猛然と日本料理を語ってしまう。そんなに日本料理が素晴らしいなら懐石をやればいいじゃないか、何でフランス料理をやりたいんだって言われて、あれ? そう言われればそうやなと初めて気がついた」

日本料理を世界へ

 日本料理を世界の人に知ってもらいたい。初めて経験する孤独で過酷な生活の中で、その後の人生を導く志を見つけた村田は、帰国して父に日本料理をやると伝えた。

 「なぜ日本料理やるのか、親父に一生懸命話して、ようやくわかってもらえました。それなら他所の飯食って来いと名古屋の『か茂免(もめ)』に3年、修業に出ましたんや」


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