2024年4月27日(土)

それは“戦力外通告”を告げる電話だった

2015年10月2日

 落語を一席、といえば妙に納得がいく。取材開始から2時間。軽快な語り口とあまりにも面白いストーリーに聞き入ってしまった。

 南牟礼豊藏。みなみむれとよぞう、と読む。一度会ったら忘れないのは、その名前のインパクトだけではない。噺家のように次から次へと紡ぎ出される言葉には、その場にいる人の心をつかんで離さない魅力がある。

南牟礼豊藏(Toyozo Minamimure)
阪急ブレーブス→中日ドラゴンズ→阪神タイガース
1960年生まれ。宮崎県立都城工業高校卒業後、電電九州に入社。81年ドラフト3位で阪急ブレーブスに入団。守備、走塁のスペシャリストとして活躍する。91年のシーズン中に中日ドラゴンズへトレードとなる。93年に自由契約となり、阪神タイガースへ入団。95年に再び戦力外通告を受ける。引退後、ラジオ解説者などを務めたが、一念発起して専門学校へ通い、柔道整復師の国家資格を取得。2007年に兵庫県西宮市でみなみむれ接骨院を開業。(写真:小平尚典)

 1981年に阪急ブレーブスからドラフト3位指名を受けて電電九州より入団。福本豊、簑田浩二、ウィリアムスという鉄壁の外野陣に食い込み、守備力と走力でチーム内でのポジションを確立していった。野球の実力もさることながら、そのトーク力は“4チャンネル”と呼ばれ、当時から健在だった(どこのチャンネルに替えても、オマエがしゃべっとる、と言われたことに由来するそうだ)。9年目の91年に中日ドラゴンズへトレードとなる。本人曰く、「人気のセ・リーグで野球ができる喜び」に満ち溢れていたという。

 「阪急時代はね、ダブルヘッダーでお客さんの数が、7人、9人なんて日もよくあった。それに比べて、セ・リーグはお客さんが多いからね」

 豪快に笑いながら、次々と当時を振り返る。

 「中日には、“椅子の背もたれに背をつけてはならない”っていう変わった決まりがあってね。星野監督が突然ベンチを蹴り上げて、その衝撃でムチウチになってしまうかららしい」

 持ち前のキャラクターに加え、乱闘が起きれば真っ先にベンチを飛び出していく闘志を買われ、重宝された。

 2年後の93年、プロ11年目のシーズンを終え、秋季練習に向けた準備をしている最中、電話が鳴る。電話の相手は一度も会話をしたことがない、球団の管理部長だった。

 「明日、ちょっと話がしたい」

 何の前触れもなく、突然のクビだった。「こんな感じでクビになるんやなぁ」と、どこか他人事であったが、すぐに阪神タイガースから声がかかり、移籍。阪神では、試合終盤に代走や守備固めで出場を重ねていった。しかし、95年は膝を故障し、なんとかプレーを続けたが、最後まで一軍に上がることはできなかった。同年10月、またしても電話が鳴る。翌日、当時のスカウト部長よりクビを告げられた。

 「おう豊藏。オマエよう喋れるからな。どこにいっても大丈夫やろう」

 2度目の自由契約。「えぇっ!!クビですか!?っていう感じやった」と語る南牟礼であったが、膝の故障は一向に治らず、半ば諦めかけていた。そこへダイエーから入団テストの誘いを受け参加するも、テスト中に膝が外れてしまい、断念。引退を決意した。


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