幕末の若きサムライが見た中国

2018年8月3日

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樋泉克夫 (ひずみ・かつお)

愛知県立大学名誉教授

中央大学法学部、香港中文大学新亜研究所、中央大学大学院博士後期課程を経て外務省専門調査員として在タイ日本国大使館勤務。著書に『華僑コネクション』『京劇と中国人』『華僑烈々―大中華圏を動かす覇者たち―』(以上、新潮社刊)など。

[著書]

五代友厚との出会い

 乗船したのが4月27日。翌28日は「好晴、船中諸子云、今午後必解纜、而終日匆々、不發船(好天、同乗者は今日の午後には必ず出港するというが、終日、あたふたするばかりで出港しない)」と記した後、「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧(日本人というヤツは、どうでもいいようなクダラナイ事に拘泥し、いざという時に果断な行動がとれない。こんなことだから、外国人にバカにされてしまうのだ。嘆かわしく恥ずかしい限りだ)」と、“慨歎”の文字を叩きつけるように綴る。

 はたして明治維新から150年が過ぎた現代に生き返ったとして、高杉は憤怒と慨歎を半ばさせながら、「嗟日本人因循苟且、乏果斷、是所以招外國人之侮、可歎可愧」と怒声を挙げるような気がする。確かに「可歎可愧」ではある。

 4月29日の早暁、「號令一聲、解纜發船」。船は長崎を出港し、西南に針路を取り上海に向かった。長崎を去る「一百里」辺りで暴風雨に巻き込まれ、荷物はひっくり返り、誰もが船酔いに悩み、「臥體殆如死人(横になったまま殆ど死人の如し)」。高杉は病気が癒えてはなかったが、船酔いはしなかったらしい。夜半になって風が静まったことで、どうやら「諸子大喜(誰もが大いに安堵した)」ようである。

 日付は5月3日だから船中でのことである。この日、「水夫」に身を窶した薩摩の五代才助こと、維新後に大阪経済界興隆の立役者となった五代友厚(天保6=1836年~明治18=1885年)を初めて知った。時に才助26歳。対する高杉は23歳。長崎出港前、五代は高杉を訪ねたが、病床の高杉に会えずじまいだった。船中で念願が叶い、「一見して舊知の如く、吐露肝膽を吐露し、大いに志を談じた」ことになる。

 ところで五代の「志」だが、『内情探索録』には「薩摩より、五代才介と申人千歳丸水夫と爲り、上海に罷越せしなり、五代者薩摩之蒸汽船之副將位之處を勤者之由に而、段々君命を受て當地罷越せし様子なり、追々心易成、其論を聞くに、歸國之上者、蒸汽船之修復と申立、上海邊に交易に來る心得なり、上海渡海之事開くれ者、歐羅斯、英吉利、亞米利加江も渡海相成様開くならんと云、蒸汽船買入之節之咄を聞くに、餘程有益に相成様子なり、蒸汽船買入れ之値段十二萬三千トル、日本金に直し七萬兩」と記し、「薩に二十間計之軍艦、外に運送船を求むる様子なり。蒸氣買入れ江戸江登り、夫れ上海江罷越落着之由」と書き加えた。

 以上は、次のようになろうか。

――薩摩の五代という者は、お国では「蒸気船」の副司令官を務めているとか。主君の命を受けて上海にやってきた。次第に打ち解けて聞いた話では、薩摩に戻った後、蒸気船修理を名目にして上海で交易をするつもりで、上海での交易が成功したら、いずれヨーロッパ、イギリス、アメリカへの渡航を計画しているとのことだ。蒸気船購入の話を聞くに余ほど有益らしく、値段は12万3千ドル、我が7万両だ。薩摩は軍艦と輸送船を購入する予定で、蒸気船を購入して江戸に向う。以上のために上海にやって来た――

 「二十間計之軍艦」だが、「計」は「ばかり」と読めるが、それにしても「軍艦」にしては「二十間計」では小さすぎるように思える。あるいは高杉の誤記なのかもしれない。いずれにせよ五代の上海行きは薩摩藩を挙っての遠大な交易計画が隠れていたと考えられる。すでに薩摩藩は開国後を想定していたのか。あるいは欧米との交易による藩財政の充実を図り、徳川幕藩体制を乗り越えようとしていたのか。

 高杉は中牟田について「航海術を心得、且少々英語も出來、長崎より上海迄航海航路之事閲す様子なり」と記し、「幕府勘定方之小吏」である山崎は日本の物産の上海での売却の可能性を探るために、上海における日清両国産品の相場の調査を進めているとも綴った後、「誰もが君命を帯びて渡海した点から考えるに、佐賀や薩摩の両藩のようには具体的ではないものの、誰もが将来の上海における交易の可能性を探っている様子だ」と記し、佐賀と薩摩の両藩のみならず幕府までもが上海での貿易に積極的であることに率直な驚きを隠さない。かくゆう高杉は独断でオランダに蒸気船を注文した。その理由を高杉は次のように説いた。

――「支那之衰微」した理由を考えるに、とどのつまり外敵を海の外で防ぐ道を知らなかったからだ。万里の海を遊弋可能な「軍艦運用船」や敵を自国の海岸線から「數十里之外に防くの大砲も製造」せず、さらには国防・海防の要を訴えるべく「志士」が訳した『海國圖志』も絶版といった有様だ。かくして清国は、ただただ危難を先送りし、時代遅れの考えにしがみつき、因循姑息にして「空しく歳月を送」るばかり。太平の世に浮かれる心を断然として改めもせず、「軍艦大砲製造し、敵を敵地に防くの大策」がないからこそ、今日みられるようにブザマに衰微してしまった。すでに「我日本」も「支那」の轍を踏みつつあるではないか。であればこそ「速やかに蒸氣船の如き」を購入せよ――

 また「支那上海港ニ至リ、又彼地及北京ノ風説・形勢ヲ探索シ、我 日本ニモ速ニ速ニ攘夷ノ策ヲ爲サスンハ遂ニ支那ノ覆轍ヲ蹈ムモ計リ難シト思シナリ」とも説く。海を越えてやってきて上海や北京の情勢を探ってみると、日本は可及的速やかに攘夷の策を講じないならば、遂には「支那ノ覆轍ヲ蹈ム」ことになりかねない。「我日本」にも亡国の危機は押し寄せている。高杉の焦りは募るばかりだったろう。

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