2026年10月26日(月)

巨大災害時代を生き抜く

2026年10月26日

 「まるで〝爆撃〟を受けたかのようで、地震という概念を超越していました。揺れている間に頭をよぎったのは、『何これ、何これ……』ということでした」

一瞬で日常を奪った阪神・淡路大震災。まだ語られていない歴史は多いかもしれない(NOBORU HASHIMOTO/GETTYIMAGES)

 こう話すのは、兵庫県西宮市在住の福井寿実江さん。1995年1月17日午前5時46分、夫の敏さんと生後1カ月になる良太朗くんと3人で暮らしていた西宮市内の軽量鉄骨造のアパートで、阪神・淡路大震災に被災した。寿実江さんと敏さんは、小誌記者の取材に対し、「震災のことは初めて話します」と前置きした上で、当時の記憶を語り始めた。

 「あの日は、5時過ぎに息子が泣き出したため2人とも起きていました。私は寝室で息子を抱っこしてあやしていたら、細かく揺れ始めたんです」

 当時、兵庫県猪名川町付近では群発地震が続いていた。「また、あれかな」──。そう思った直後だった。

 「耳元で蒸気機関車が走り抜けるような轟音が鳴り響いて、部屋そのものがシェイクされているようなすさまじい衝撃に襲われました」

 台所にいた敏さんは、とっさにシンクを掴もうとしたが、その手は振りほどかれ、棚から落ちてきた土鍋で顔にけがを負った。敏さんは言う。

 「最初にこみあげてきた感情は恐怖ではなく〝怒り〟でした。衝撃で身体から1つ、2つネジが落ちて気持ちが壊れてしまったような……。その怒りをどこにぶつけていいか分からない、やるせない気持ちと苛立ちを感じていました。ふと外を見ると、道路の向かいにあるビルが半分崩れて、まるでドールハウスのように中が丸見えになっていたんです」

 寿実江さんは、敏さんの「うわっ、大変や。前のビル崩れとる!」という一言で、我に返り、大地震に襲われたのだとはっきりと認識した。

 「必ず大きな余震が来ると思い、抱えていた息子を強く抱きしめました。西の方から『ゴォー……』と地響きが聞こえ、近づいてくるのが分かり、あの時が一番怖かったですね」

 余震が収まり、懐中電灯で部屋を照らすと、家具や物が散乱し、張っていた風呂の水は全てなくなっていた。最低限の物だけを小さなリュックに詰めて外に出ると、そこには見たことのない景色が広がっていた。

 「まちの輪郭そのものがなくなっていたからか、空気がとても冷たかったですね。静寂すぎて高い音の鈴が鳴っているように感じました」(寿実江さん)

 幸い、所有していた車は無事だった。そして奇跡的に、大阪市にある敏さんの実家に連絡がついた。

 2人は、躊躇うことなく、「生きる」ために、車で大阪へ〝避難〟することを決意する。

 敏さんはその時の様子をこう話す。

 「国道43号線を走る車は1台もなく、まるで映画のワンシーンのようでした。阪神高速は落ち、住宅やビルが崩れ、道路も所々陥没していたので、慎重に運転をしました」

 ところが、車を東へ走らせていくうちに、景色が変わっていった。

 「武庫川を越え、尼崎に入ると、普通にまちがあるんです。そして、淀川を越えて大阪に入ると、先ほどいた西宮とは別世界でした」

 ほんの少し前までいた西宮は当たり前の日常を失ったのに、大阪ではいつもと変わらない時間が流れている──。そのギャップに、敏さんは大きく戸惑った。

 「大阪の実家に着くと家族が出迎えてくれましたが、父親がいなかった。『地震でなんかあったんか?』と聞くと、パチンコに行った、と言うんです。『なんでここは普通なん?』とやるせない気持ちになりました。でも、温かい風呂に入った時、ほっとしたのを覚えています」


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