2024年12月10日(火)

Wedge REPORT

2021年3月8日

東日本大震災では、全国から自衛隊が派遣され、人命救助や生活支援に尽力した(AP/アフロ)

 

 1995年1月17日午後4時、神戸市灘区の「王子陸上競技場」に、2基のローターを備えた巨大なヘリが降下してくる姿を見て、当時、地元紙の記者だった私は刹那、わが街が「戦場」と化したかのような感覚に陥った。それは「チヌーク」の愛称で呼ばれる、陸上自衛隊の大型輸送ヘリCH-47Jだった。

 もっとも、このヘリの愛称はもちろん、飛来した3機のチヌークが、千葉県・木更津駐屯地の「第1ヘリコプター団」所属で、姫路駐屯地から救助活動に向かう「第3特科連隊」の隊員193人を運んでいたことを知ったのは、しばらく後のことだった。

 「競技場に着いたら、ほうぼうで煙が出ているはずだから、その方向に行け。救助を求められたら逐次、小隊に分かれ、機材と無線機を持って動け」

 阪神・淡路大震災の発生から既に10時間近くが経過していたが、連隊に入る情報はあまりに少なく、連隊長は、こう指示するほかなかったという。

 その5時間後の午後9時、同市東灘区で被災した男性(当時27歳)は、壊滅的な被害を受けた海上自衛隊阪神基地の沖合に浮かぶ、複数の艦艇が放つ光を目にし、「国は俺らを見捨ててなかったと、思わず涙が溢れた」と話す。

 後日、男性は、これらの艦艇が、広島県の呉基地隊に所属する輸送艦と護衛艦で、呉から10時間かけて神戸に辿り着いたことを知ったというが、貝原俊民・兵庫県知事から呉総監部に災害派遣の要請があったのは、地震発生から約14時間後の17日午後7時50分。しかし、その時にはすでに、数隻の艦艇が神戸沖に到着していた。

 実は呉基地隊の艦艇は、その日の午前9時40分には出港していた。阪神基地隊から地震発生の一報を受けた当時の加藤武彦・呉地方総監が、引責辞任を覚悟で「自主派遣」したものだった。

 自衛隊の災害派遣には①都道府県知事などの「要請に基づく派遣」(自衛隊法83条2項)、②自衛隊の施設や部隊の近くで火災などの災害が発生した場合、部隊の長の判断で派遣できる「近傍派遣」(同3項)、③緊急に救助が必要と認められるのに、通信の途絶などで都道府県知事などと連絡が取れない場合には、要請がなくても部隊を派遣できる「自主派遣」(同2項但し書き)の3種類がある。しかし、「当時は自衛隊の独断行動を危険視する風潮が強く、要請に基づく派遣が基本だった」(防衛省OB)。

 阪神・淡路大震災では、首相官邸など中央に情報が入らず、機能不全に陥り、自衛隊に対する派遣要請が大幅に遅れたことはよく知られている。陸上自衛隊への派遣要請は、発災から4時間以上経った午前10時、海上自衛隊への要請は前述の通り午後7時50分、航空自衛隊に至っては、翌18日の午後9時だった。

 だが、被災地となった伊丹市に駐屯する陸上自衛隊中部方面総監部も、前述の呉地方総監部と同様に、発災直後から動き始めていた。午前6時には非常勤務態勢をとるとともに、第36普通科連隊254人を「近傍派遣」の名目で、阪急伊丹駅や西宮市民病院などに向かわせ、救出活動を開始していた。

 しかし、発災から9日後の26日、記者会見に応じた松島悠佐・中部方面総監(当時56歳)は、マスコミから「出動が遅かった」との批判を浴び、悔し涙を流した。松島氏が述懐する。

 「記者たちから『なぜ自主派遣しなかったのか』などと言われ、『現場の事情も、隊員たちの苦労も知らずによくも……』と悔しくてね。当時は、自衛隊の『自主派遣』など容認される世相ではなかった。だからこそ『近傍派遣』で部隊を出さざるを得なかった。

 また当時の阪神地域は、九州や東北と違って、自衛隊に対する〝アレルギー〟が強く、防災訓練すら一緒にしないという土地柄だった。平素から県や市と緊密な連携をとり、協働訓練を重ねていれば、救えた命はもっとあった」


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