自治体も機能しないほどの津波災害で多くの住民を救ったのは自衛隊だった。迅速かつ的確な活動を支えたのは、3年前の大規模訓練で得た経験を基礎にした災害への対応力。片や、場当たり的に見える原発への対応。事故を想定した自衛隊の訓練の要望は、実現していなかった。
対応できたのは自衛隊だけだった
「自衛隊はこの集落が孤立するのを知ってたかのようだった。津波の後に初めて隊員が来てくれたときは本当にほっとした」
東日本大震災による津波で大きな被害を受けた岩手県釜石市箱崎町上前地区の60代の男性はそう語る。この地区は太平洋に突き出た箱崎半島にあり、他の地区とは細い道路1本でつながっているだけだ。津波で道路が寸断された後、完全に孤立してしまった。それでも、地震発生の翌日にはこの地区に自衛隊員が到着した。3日後には道路のがれきが取り除かれ、物資が届くようになった。小誌取材班が自衛隊に同行した3月22日には1日2回、隊員らがこの地区を含む市内の避難所や集落に食料や水などを送り届けていた。物資を運ぶだけではなく、住民からの要望をこまかく聞き取っていた。
釜石市で活動するのは、秋田駐屯地を拠点とする陸上自衛隊第21普通科連隊を中心とする部隊800人。3月11日の地震発生後、ただちに非常召集がかけられた部隊は、知事からの災害派遣要請を受けてその日の晩には駐屯地を出発した。途中、岩手県北上市の北上総合運動公園にいったん集結し、先行する偵察部隊から道路状況などの報告を受けた上でさらに移動し、釜石市に入ったのは翌朝7時半ごろ。
当時、釜石市内では電話がつながらず、防災無線も津波で破壊され、市が保有していた衛星電話までも原因不明の故障で利用できなかった。市では被害状況の把握もままならない。すぐに情報収集を担当する隊員らがヘリと連携しながら市内各地の状況をくまなく確認する作業に取りかかった。
入り組んだ海岸線をもつ三陸沿岸には、ひとたび津波で道路が寸断されてしまうとたちまち孤立してしまう集落が少なくない。がれきをかき分け、車両が入れないところには徒歩で向かい、海路も利用して3日以内に市内のほぼすべての集落の状況を把握し終えた。
それとともに最優先で取り組んだのが人命の救助。発生から72時間までの間は集中的に隊員を投入した。13日までに倒壊した家屋の下などから12人の住民を救助し、14日には市内の箱崎白浜地区で孤立していた住民58人を航空自衛隊と協力してヘリで市内中心部の体育館に移送した。
続いて重点が置かれたのが、民生支援と呼ばれる住民の生活を支援する作業だ。大型の重機を使って道路を覆う大量のがれき撤去をする作業を進めた結果、13日には国道45号線や283号線などの市内の幹線道路がほぼ通行可能となった。道路が復旧すると、市内各地で避難する住民らにガソリンや食料、水などの救援物資の輸送を開始し、さらに食事の炊き出しと活動の幅を広げていった。
取材班が釜石市で取材を始めたのは地震から10日後のことだが、市役所は十分に態勢を立て直すことができず、混乱が続いているとの印象をもった。地元の消防団も副団長をはじめ団員9人が津波で死亡または行方不明となり、消防無線などの通信手段も使えなくなったために、活動に限界があり、自衛隊の能力と大きな違いがあった。