世界を相手にビジネスをする原点の一つとなったのが、天野芳太郎さんとの出会いだった。昭和47年(1972)、大学を休学して旅に出た私が、放浪の末出会ったのが天野さんであった。初対面の印象では、事業家として成功した人だというよりは、学者風の雰囲気を持った人だった。ただの放浪ニートであった私を天野さんは出迎えて下さった。その時の様子は今でも瞼の裏に浮かぶ。
明治31年(1898)生まれの天野さんは、昭和3年(1928)、30歳のときに南米に勇躍。その後、南米各国で事業を成功させた。事業と共に天野さんが情熱を捧げたのは、古代アンデス文明の発掘調査だった。日米開戦によって帰国を余儀なくされるが、再び南米に渡り、昭和39年(1964)、ペルーに天野博物館を建設し、それまで発掘、収集した遺物を展示した。
昭和46年(1971)、スペイン語を学ぶ目的でペルーに渡り、8月から1年間天野博物館で勤務した経験を持つ高山憲二さん(元三井金属ワンサラ鉱山勤務))に話を聞いた。
中村:高山さんは当時、天野博物館では何をしておられたのですか?
高山:ペルーの文化庁に相当する役所に、博物館の展示品を登録する仕事していました。展示品を発掘場所、時代、特徴、購入したモノであれば購入先などのデータを記入して写真とともに提出するのです。天野先生には、そうすることで、学問にも役立てたいという思いがあったのでしょう。
私が最初にお邪魔したときには、既に4年前に脳血栓を患われた後で、大好きだったというお酒も止めておられました。脳の病気をされ、70歳を超えていたにもかかわらず、記憶力がもの凄いことに驚かされました。
中村:こうした収集品は戦前から集められていたものなのでしょうか?
高山:詳しいことは分かりません。分かっているのは、先生が日米開戦によってパナマで多分CIA(米中央情報局)にスパイ容疑で拘束されて、日本に強制送還されたということです。
中村:パナマは、運河を自己管理下に置くために、アメリカが無理矢理コロンビアから独立させたという経緯がありますから、外国人、特に開戦前の日本人への風当たりは強かったでしょうね。