民主主義には、政治家の側に、いわゆる国民目線と共に、それとはかけ離れた指導者としての国家観が必要である。しかしエモーショナルなスローガンのもと、「国民の生活が第一」という党是を掲げ、子ども手当、高速道路の無料化、年金、医療、農業などの個別政策をアピールした、若くて見栄えのいい民主党の候補者たちが大量当選し、戦後初の政権交代が実現した。
小沢支配だけでない 民主党が抱える問題
だがそれは、政治家として「未成熟な羊たち」が、選挙において「悪魔的な能力を持った狼」の存在によって、権力の座についてしまったことを意味した。その結果、何が起こったのか。理想に燃えた言動で注目され、国民の負託を受けた民主党の政治家たちが、この外交・安全保障の危機に接して一斉に口をつぐんでしまっているのだ。私は、日本の政治史のみならず、世界中の民主主義国家を見渡しても、これほどの落差の大きさを見たことがない。
どうして彼らは議論しないのか。その原因について多くのメディアや国民は、「小沢幹事長が強権支配しているから恐くて逆らえないのだ」と解釈しているようだが、私は違うと思う。小沢氏個人を問題とするのは本質から目を逸らしているだけであり、民主党という政党の本質が元来、民主主義に向いていない、ということではないのか。「党内ガバナンス」を履違え、何より大切な「自由な言論」の価値をあまりに軽視しているからである。さらにはその国家像が大きく歪んでいるか、または政治家としての使命感が欠如しているからである。
踏み込んで言えば、(自民党の若い世代にも当てはまるが)民主党の政治家の平均的なイメージは、本来の政治そのものではなく、年金や医療などの個別の政策にしか関心がない。日本を良くしたいという志はあるものの、その志は端的に言えば「学級会レベル」である。
なぜなら、福祉や環境政策の支えとなる財政、その基礎である経済成長、そしてそれら全ての根底をなす安全保障をどうするのかという政治の全体像と問題意識に欠けている議員が多いからである。政治や国家、世界を論ずるだけの社会的教養がなく、シングルイシューのみの「国民目線」でスポットライトを浴びて国会議員になってしまっているからだ。自民党にもそういう議員はいたから所詮、「程度の差」というところがあるが、その差はやはり大きいものがあるということだ。
つまり、民主党議員の国家観の根本的欠如が、選挙を一手に握る幹事長の呪縛に簡単に囚われてしまうことの原因なのであり、それゆえに自らの保身から、彼らは口をつぐんで、何の呵責も感じないのである。このことが、「指導者としての国家観」を欠いたまま、各論だけが議論されるという日本政治の漂流の背景にある。
護憲派のうっちゃり で作られた現政権
実は約20年前、日本でも各論ではなく国家としての総論が議論されかけたことがあった。東西冷戦の終焉が明らかになってきた昭和末期から平成初期にかけて、日本は戦後繁栄のピークを迎えていた。西側陣営に属して世界第2位の経済大国になり、これからの日本は何を目指すのかが大テーマとなった。
戦後を乗り越え、日本は経済だけでなく「国家」としても一流になり、アジアのリーダーとして地域の近代化の先頭に立ち、そして世界の大国になる。それには自立した外交が重要であり、憲法改正が欠かせない。人々の関心も当然、その流れに向かい、世界も「日本は大国化」するとの捉え方をしていた。