歴史を振り返ると、これまで何度となく新しい大国、すなわち「新興国」が登場し、そのことが既存の国際秩序を動揺させ、それまでの大国を不安にさせることがあった。新しい巨大な大国が隣国として浮上してきた際に、われわれはそれをどのように受け止めるべきなのか。はたしてその新興国は既存の秩序を破壊し、混乱させ、戦争の悲劇に導くのであろうか。それともそれが新たな活力の源泉となり、新しい機会と富をもたらし、そして世界全体を良い方向へと導いていくのだろうか。
老大国イギリスは、これまで何度となくそのような歴史を経験してきた。むしろイギリス自らが16世紀から17世紀にかけて「新興国」として浮上してきた歴史を有する。このときのイングランド(1707年のスコットランドとの併合以前をイングランドとする)は、ヨーロッパ大陸の覇権国による侵略におびえる弱小国であった(詳しくは、君塚直隆『近代ヨーロッパ国際政治史』有斐閣、2010年を参照)。1701年に始まるスペイン王位継承戦争では、ルイ14世の巨大なフランスが覇権国としてスペインにまで影響力を浸透させようとした。イングランドから派遣された最高司令官マールブラ公爵の外交手腕によって、ウィリアム三世率いるイングランドはオランダや神聖ローマ帝国と連合を組み、無敵とも思えたルイ14世の軍隊を撃退した。イギリス台頭の契機をつくったマールブラ公爵はもともとジョン・チャーチルという名前で、あのウィンストン・チャーチルの祖先である。チャーチル家は、大国イギリスの運命と深く結びついていた。
さて、講和条約であるユトレヒト条約によって、イングランド、後のイギリス(the United Kingdom)は、大国の仲間入りをするとともに、北アメリカや地中海に海外領土の拠点を得た。海を支配する海洋帝国の誕生ともいえる。このイギリスはこれ以降、ヨーロッパ大陸の勢力均衡、そして植民地に繋がる海路(sea communications)の確保を国家戦略の根幹に位置づけるようになる。それでは、イギリスは自らの安全と繁栄を守るために、これ以降に陸続と台頭する新興国に対して、どのように対応してきたのか。
これ以降台頭する新興国に、イギリスは大きく分けて三つの対応を行ってきた。第一の対応は、「対抗」、すなわち勢力均衡政策である。たとえば、クーデタで統領政府樹立をしたナポレオンに対して、イギリスの首相ウィリアム・ピットは勢力均衡の観点から、オーストリア、プロイセン、ロシアと「グランド・アライアンス」を組むことで、その帝国的野心に対抗した。またカースルレイ外相は、1814年のショーモン条約によってフランスに対抗する「四国同盟」を結集した。20世紀初頭には、1904年の英仏協商、そして1907年の英露協商によって、ウィルヘルム2世のドイツ帝国に対抗した。同様に、第二次世界大戦時に首相ウィンストン・チャーチルは、祖先のジョン・チャーチル、そして尊敬するウィリアム・ピットにならって、自らの反共主義的な理念を抑制してソ連と提携し、またアメリカとの「友愛の関係」を通じて、「グランド・アライアンス」を結集した。勢力均衡政策という伝統に則って、イギリスは新しい巨大な覇権国の誕生を、「対抗」の論理で牽制し、抑制し、封じ込めてきたのである。イギリスにとって幸運なことに、それらの試みの多くは成功に終わった。重要なのは、イギリスはそれを単独で行うのではなく、つねに幅広い国際的な結集を通じて実践したことである。