第二の対応は、「協調」である。イギリスは新興国の台頭に対していつでも「対抗」の論理から対決してきたわけではない。そもそもイギリスにはそのような対抗を続ける軍事的および財政的な余力はなく、むしろそれらの新興国と提携することで自らの国益を擁護しようとした。それが限界に直面して、やむを得ぬ段階になって初めて「対抗」の論理に移行したのである。たとえばイギリス人の歴史家ポール・ケネディは、「イギリス対外政策における宥和政策の伝統、1865-1939年」と題する論文(British Journal of International Studies, vol.2, 1976)で、財政的な制約からもイギリスは一貫して宥和政策の伝統を続けてきたと論じる。イギリスのヴィクトリア女王は、その孫であり血の繋がるドイツ帝国皇帝ヴィルヘルム二世との協力関係を期待し、しばらくは英独間の蜜月時代が続いた。この時代のイギリスにとっての脅威は、1894年に同盟を締結したフランスとロシア帝国であり、この両国がイギリス帝国の海外領土を深刻に脅かしていたのだ。また植民地相ジョセフ・チェンバレンは、人種的な理由からも英独間の同盟締結へ向けて奔走した。それに行き詰まると、今度は極東の「新興国」である日本とさえも手を組んだ。1902年の日英同盟である。「永遠の味方も永遠の敵もない」とパーマストン外相がかつて語ったように、イギリスの国益を守るためであればあらゆる手段をとるのだ。同様にこの時代に、新しい大国として西半球に浮上したアメリカとさえ手を組んだ。1812年の第二次米英戦争以来、英領カナダとの国境線をめぐり英米関係はつねに臨戦態勢であった。アメリカにとっての最大の仮想敵国が、かつての支配者イギリスであった。ところがイギリスは、この新しく浮上するアメリカが圧倒的な工業力と軍事力で国力を増すことを予期して、早い段階で「宥和」を実践した。1901年のヘイ=ポンスフォート条約である。ここでイギリスは、パナマ運河をアメリカの勢力下に置くことと譲歩して、アメリカとの信頼関係構築を優先した。
さて、第三の対応は「依存」である。これは苦痛に満ちた選択である。たとえば、1956年のスエズ危機の際に、アメリカからの強い圧力の下でイギリスは死活的に重要なスエズ運河からの撤退を強いられる。また、財政的な理由からも核戦略に頼らざるを得ないイギリスは、アメリカからの核運搬手段であるスカイボルト(空中発射弾道ミサイル)、そしてポラリス(潜水艦発射弾道ミサイル)を入手するためにも、対外政策上多くの局面でアメリカに意向に依存せざるを得なくなる。国家安全保障を確立するためには、あるていど対外政策上の自律性を放棄せざるを得ないのだ。
このようにイギリスは、数百年にわたる歴史の中で何度となく「新興国」の台頭に直面し、柔軟にそれらへと対応してきた。そこでは、「対抗」「協調」「依存」という三つの論理を組み合わせることで、イギリスの安全と利益を最良のかたちで確保しようと努力を続けてきたのである。そのような経験を経たイギリスにとって、中国の台頭はおそらくそれほど脅威と感じるものではないであろう。これまで同様の戦略を柔軟に駆使することによって、その中国を国際秩序の中に安定的に導くことが出来ると考えているかもしれない。過去一世紀半に渡って自らが「新興国」として台頭してきた日本にとっては、むしろ中国の台頭ははじめて経験する近隣国の大国化であり、急速な浮上である。だとすれば、イギリスの歴史から教訓を学ぶことで、冷静な対応が可能となるように努力をすべきである。
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