現在、ほとんどの家電製品は、台湾を代表する大手EMS(電子機器の受託生産)で製造されたものになっており、この流れは部品にまで及んでいると聞く。もし日本の家電メーカーがグローバルEMSになれていれば、現在の状況は大きく変わっていたはずだ。なぜ、そうなれなかったか考えてみると、2つの理由があるように思える。
まず、セル生産方式を受け入れたことだ。セル生産方式は、少量多品種の製品に関しては素晴らしい方式である。しかし、セル生産の発祥である自動車に比べて、単価の安い(約100分の1)家電製品に対して、この生産方式を受け入れたことは、適切ではなかったのではないだろうか。
家電の場合、少量多品種であることを「良し」とするのではなく、本来のコンシューマー商品の姿(松下幸之助氏の“水道哲学”)、つまり「量」を求めることが必要という側面がある。
そのため、相対的に人件費の高い国内拠点では、高機能品のような少量多品種の製品を生産したとしても、海外では量を求めるために他社の製品の生産も受け入れるEMSとなることも選択肢の一つとなってもよかったはずだ。
次に、リスクをとって生産設備の拡大に向けた投資をするよりも、むしろ縮小に向かったことだ。スペースも少なく、規模の拡大をすることもなく、既存の生産インフラの中で効率化を図るセル生産の方が日本の家電メーカーの経営にとって受け入れやすかったのだろう。
こうしてみると、そもそも、日本の家電メーカーには、量つまりは市場シェアをとるためにはEMSになってでも、という気概がなかった。また、EMSがこれだけ大きな力になるとは予想できなかったのだと思う。
こうした結果、半導体、PCと同様に、量を必要とする投資に関わるものはすべて台湾を筆頭としたアジア勢に先を越された。彼らは、日本などから大量の製品を請け負う中で、開発力も蓄えるという皮肉な結果を生んだ。
量を追うことの価値を見抜けなかった
日本の家電メーカーがグローバルEMSになっていれば、少なくともコスト競争力で戦うことはできた。「商品企画」の欠如という根本問題の改善を図る余裕もないままに、苦し紛れに商品の後追いを続けるのではなく、EMSでは量で稼ぎ、その間に商品企画力を磨き、新たなイノベーションを起こすための時間を稼ぐことができていただろう。
さらに、EMSに流出した日本の技術者たちも日本企業にとどまらせることができたかもしれない。そうすれば、日本が強かった部品開発も進み、iPadに代表される流行のタブレットPCに、ほとんど日本製の部品が入っていないことにはなっていなかったはずだ。
日本の製造技術はいまだ高く、日本にグローバルEMSになるための力がなかったわけではない。結局はマネジメントの問題で、リスクを取らないことに主眼を置いたことにより、量(EMS)の価値を見抜けなかったことが現在の結果を生んだのである。
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