大使館スタッフの働きぶり
Q 被災地に向かう前、いちばん難問だったのは何ですか?
A まず情報の入手。それから通訳の手配。大使館からスタッフをよこしてもらう必要もありました。その人たちが、地元の日本人とやりとりをして、燃料や車両の手配をしてくれたわけです。もちろん、どこに行くべきか、どの道路がまだ通行可能かについても知る必要がありました。
Q で、そうした問題をどのように処理したのでしょう。
A 大使館のスタッフはすばらしかったです。必要なものは、全部手配してくれました。少し時間はかかりましたが、うまくいった。
Q ここへ行け、というのは誰が決めたのでしょうか。
A 日本政府だと思います。
Q 活動地域をどんなところだと思いましたか。予め、こんなところだろうというイメージはありましたか。
A 漁村である、と。人口は1万7000人ほどで、そのうち1万人ほど行方不明になっている、と。周辺の道路は全部だめになっているから、何キロか徒歩で行くしかないだろうとも言われました。ともかくわれわれが予想したのは、一面水浸しになって、そこらじゅう破壊された場所で、家を失った人も、命をなくしてしまった人もたくさんいるところだろうなということです。
横田基地で米軍から水をふんだんにもらった
Q 少し時計の針が戻りますが、横田基地では米軍関係者と何かやりとりがありましたか。
A 飲料水をもらいました。おかげで派遣期間中、十分な飲み水を確保できました。米国が手掛けている救援活動のうち、オーストラリアから来た自分たちと関係のあるものはどんなものか話をしました。宮城県へ行くのにベストの交通手段が何か、とか、米国も大型のUSARチームを沿岸部へ既に派遣していたことなども聞かされました。
Q オーストラリア軍の飛行機は、横田基地へ自由に着陸できるのですね。横田基地は朝鮮戦争以来国連軍の基地でもあって、オーストラリアはもちろん朝鮮戦争に国連軍の一員として参加したからです。そのことはご存知でしたか。
A はい。オーストラリア軍が米軍基地に着陸できるということは知っていました。
Q 基地から出先ベースキャンプ(BOO)までの移動方法を教えてください。
A 横に5席、縦に20列のバスと、10トン積みトラック2台で車列を組みました。運転したのは地元の日本人ドライバーです。バスの手当は毎日やらないといけませんでしたが、最後を1キロほど歩いたのは最初の日だけ。残りは日本人の運転手たちが目的地まで走らせてくれました。
Q その、ベース・オブ・オペレーション、BOOの場所を決めたのは?
A 場所はここだ、というのは大使館スタッフから聞いたんです。彼らは彼らで、日本人と相談してのことです。大使館からは、われわれに3人が同行しました。その3人が通訳になり、燃料や交通手段の調達をしてくれたわけです。
Q BOOへ向かう途中のことで、何か思い出すことがありますか。
A 夜行でした。北へ行くほど、寒さが厳しくなりました。高速道路は傷んでいて、スピードは時速70キロから80キロがやっとでした。着いたら、15日火曜日のマルキュウマルマル(午前9時)くらいになっていました。
Q BOOに到着し、まずやったことは。
A そこにいたスイス、ドイツ、ニュージーランドのチームと、BOOの設営について相談しました。天候、余震、津波のリスク、それから放射能のリスクについても意見交換しました。ただし、それぞれのチームの担当エリアは別々で、活動もおのおの独自に効率を追求しました。
Q 彼らとの会話で得た知見とは?
A 放射能のリスクですが、これは、科学的な事実にもとづいた対処が必要であるということと、その状況については隊の全員に周知させなければならないということ、それから、津波が来る危険がある場所では、警戒警報と同時に退避するためのプランをもっていないといけない、といったことです。
Q スイス隊は、そのとき既に撤収・帰国しようとしていたと承知しています。どんなふうに思いましたか。
A .........
Q それまでに、日本人との接触はありましたか。あったとしたらどんな。
A 陸前戸倉で、そこにいた消防隊の隊長さんと話をしました。どこを担当してくれ、とわれわれに指示をしてくれた人です。
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