BRICSの一角を担っているブラジルの驚異的な経済発展の陰で、多くの日本人移民が主に農業分野でブラジル経済を支えてきたことは、多くの日本人が知っている。しかし、その歴史が100年に及ぶ日本人農業移民の壮絶な開拓の歴史であったことを知る日本人は今や少なくなってしまった。
戦前ブラジルに入植していた親戚の叔父さんが少年時代の私にブラジルの素晴らしさをよく話してくれた。「お前は俺の代わりに将来はブラジルに行け! 」と叫ぶのである。その話の中に出てくるのが叔父の大学の先輩、平賀練吉博士である。戦前には、叔父さんも平賀博士と同じ時代にアマゾンに移住したとのことだった。
私が大学の研究室で木材資源の研究をしていた40年前の遠い昔の話だが、実験に行きづまった時に何故か叔父の話を思い出して無性にアマゾン川を見たくなった。サンパウロからバックパッカーとしてアマゾンに行ったが、その後はパラー州のベレン経由で日本人入植地であるトメアスに入った。
叔父さんから大事に預かってきた紹介状を携えて粗末な貨物船でトメアスの港にたどり着いた。港からは徒歩で近所の子供に先導されて平賀博士の家を訪ねて行ったのである。
奥から顔を出された平賀博士は紹介状を読むと、優しげな眼差しで「食事でもして行きなさい」と家の中に招いてくださった。トメアスといえばピメンタ(黒胡椒)で有名な入植地である。平賀博士は戦前、入植者に農業指導するためにコロニア(ブラジルの日系社会)に来られたという。当時、臼井牧太郎博士がマレーから数本持ってきた苗がアマゾンで日本人の手によって大胡椒農園に発展したのだ。
平賀博士は研究者然とした方で、コロニアの人のために一生をかけてピメンタと農産物生産の研究に打ち込まれた。戦前の日本人開拓団は、劣悪な環境の入植地を与えられたため、熱帯性の風土病で命を落とすケースが多発した。
平賀博士は戦前、東京帝大農学部の学生の時にアマゾンに農業支援と熱帯植物の研究のために入植されたが、移住者の苦しんでいる姿を見て移民とともにそのまま住みついてしまわれたのである。苦労の末、ピメンタの栽培は成功して、地域の基幹産業として税収を潤すようになった。