天野園長の話によれば、年中児時代にはやはり“面白おかしい”、そして単純明快なものを好む傾向があるという。しかし、1年間で子どもの心は大きく成長する。つまり、悲しいことや辛い感情を受容し、理解できるような心が育っているのである。これはもちろん、幼稚園の意図的な教育の成果とも言えるわけだが、この成長スピードは大人の目から見ると驚くべきことに見える。(子どもにとってはごく自然なことかもしれないが)
昨今の社会情勢を「大人の幼児化」と表現した人がいた。それはあらゆる物事において「わかりやすいもの」や「単純なもの」が「良いもの」として受け止められる傾向についてだ。もちろん、本来シンプルなことをいたずらに複雑化することは問題だが、人間の感情や社会の現実はある程度の複雑さを含んだものであろう。それを受容したり理解したりできる力量が足りないことを「大人の幼児化」と呼ぶならば、その主張は的を射ているのではないだろうか。風の谷幼稚園のレポートをしてきた立場で考えるならば、「大人の幼児化」の背景には教育の問題があるように感じられるのである。
5歳の段階で論理的な議論はできる
さて、話を本題に戻して、この後の子どもたちの話し合いの様子を再び学級通信から見てみよう。
光敏君の「兵十がごんを撃ってしまったところがいい」という意見に対して「死んじゃうのが“いい”の?」と和俊くん。
「そうじゃなくって・・・。そういう“いい”じゃなくってさ・・・」と光敏くん。
「兵十がその後、“ごんだったのか”って気づくからいいんでしょ?」と真くん。「そう、そう」と同意の光敏くんです。そして凛くんも口を開きます。
「光くんが言ってる“いい”っていうのは、感動したってことじゃない? 僕もここのところはそうだから」と言いました。
それを聞き、他の子たちにも分かる部分があるようで一様に頷いていました。
風2組 学級通信「麦」より
このエピソードからもお分かりいただけるように、風の谷幼稚園の年長児クラスの子どもたちの話し合いは、かなり論理的になってくる。自分の感情を表現する語彙も増えて表現力が増したことは話し合いの質をより高めている。そして、3歳児のときから着実に築き上げてきた「相手の心情を思いやれる心」は、うまく感情表現ができないでいる仲間に助け舟を出し、議論を通じた「心と心の通い合い」は深まっていくのである。
しかし、そうはいっても子どもたちもそれぞれに思いがあり、議論が簡単に収束するわけではない。もちろん、先生が介入して強権発動で決めてしまうことは風の谷幼稚園ではあり得ないことだ。では、この議論はどのように収束していくのか。再び学級通信から見てみよう。
「へえ六がいい」と言っていた二奈ちゃんでしたが、「島ひきおにとケンムン」の“誰か屁ぇこいたやつが・・・”の部分がちょっとやってみたくなっちゃった、とのこと。
「ここのところ面白いもんね。他にもここのところちょっとやってみたいっていう人いる?」と聞いてみると、「島ひきおに派」の子たちだけでなく、他の題材を選んでいる子たちも手をあげています。クラスの半数以上の手があがり、やってみようということになりました。