WEDGE3月号第二特集 「こんなに儲かる漁業補償」の第1部「机を叩くほど上がる補償金」(一部加筆・修正)を無料で公開します。
「中通り」と呼ばれる福島県の内陸部を訪ねたのは、雪が降る日だった。福島第一原発の周辺市町村から避難した被災者が暮らす仮設住宅は、記者が訪ねる2日前に窓ガラスが二重になったばかり。「寒さも少しはましになったが、ここでの暮らしは年寄りにはつらい」。男性はそうこぼしながら記者を招き入れてくれた。
補償金をもらってもなにも残らなかった
男性は73歳。福島県の太平洋岸にあたる「浜通り」にある浪江町からこの仮設住宅に避難してきた。男性が住んでいた請戸地区は、福島第一原発から6キロ。立ち入りが制限された警戒区域内にあり、震災から1年が経ついまも故郷に戻るメドはたたない。
震災前は漁師だった。浜通りの7つの漁協が2003年に合併してできた相馬双葉漁協の組合員だ。10代の頃から50年以上にわたってアイナメやメバル、コウナゴなどの漁をしてきたという。福島第一原発の周辺の漁師が東京電力から受け取った漁業補償について聞きたいと取材の目的を説明すると、「補償金をもらっても結局なにも残らなかった」はき捨てるようにつぶやいた。
福島第一原発の1号機建設に始まり、原子炉の増設や第二原発の建設、そのたびに浜通りの漁協は漁業補償を受け取ってきた。最後に受け取ったのは00年。福島第一原発の7号機と8号機の増設のための補償だ。補償金は漁協を通じて組合員に分配され、その額は正組合員で1人あたり4000万円から5000万円。男性はこのときに受け取った補償金で自宅を建て直したという。「二階にもトイレがあった」と男性が誇らしげに見せてくれたのは、純和風の豪壮で屋敷のような新しい家の写真だ。
しかし、昨年3月11日。地震とその直後に襲いかかってきた巨大津波がすべてを奪ってしまった。家族は無事だったが、続いて起きた福島第一原発の事故で故郷を離れ、避難生活を余儀なくされてしまう。地震から2か月が経った5月に防護服姿で浪江町に一時帰宅した男性は、そこでコンクリートの土台だけとなった自宅をみた。漁船は1キロも陸に上がっていたという。
「東電から受け取った補償金は家だけでなく、生活費にあてたり、漁船や漁具の購入に使ったりしてきた。でもいったいなんのための金だったのか」いまはそう自問自答するのだという。
交渉前に東通村を視察
相馬双葉漁協が合併する前に浪江町にあった請戸漁協で幹部をしていた男性が近くの仮設住宅に暮らしているというので訪ねてみた。00年の漁業補償で、7漁協の代表のひとりとして東電側と交渉をしたという。