第一に、軍事行動は常に「やってみなければ分からない」ものである。事前にどれだけ、ウォーゲーム、図上演習、シミュレーションを重ねても、往々にして、事前に想定できなかった要因によって結果が左右される。新技術によって、防御側が強い防衛能力を発揮できることが想定されたとしても、それは、あまたある考慮要因の一つに過ぎず、それがために「攻撃」断念に至るとは言い切れない。
第二に、軍事技術は、矛と盾との相互作用で技術革新を重ねてきた。今日、新技術が防御側に優位性を与えていると指摘されているが、それが顕著なものであればあるほど、それを打ち破る技術革新を実現しようとする動機もニーズも大きいということである。現在、指摘される防御側の優位性がいつまで継続するかは何とも言えない。
恩恵は小国だけではない
第三に、新技術による防御側に対する優位性は、大国から攻められる立場の小国を有利にするという前提で議論が構成されているが、大国もまた、新技術を活用することができる。この点は、兵器構成や軍事思想にも関わるので、「航空母艦やステルス航空機といった戦力投射能力」を重視してきた大国の変化のスピードはそうした兵器を持つだけの資源を持たない小国ほど早くないかもしれないが、新技術が効果を発揮する時代への適応がなされないわけではない。
この点は、日本においても、安全保障三文書の策定プロセスで議論されている点である。新技術の恩恵を受けるのが小国というのは、当面の構図としてはそうかもしれないが、これも時間が経過するに従い、変化する可能性がある。
ウォルトは、この論説において、国際関係理論、安全保障理論における「攻防理論」を応用して、国際関係への含意を大胆に推測した。確かに、こうした理論に基づく分析は、思考を刺激する議論を提示してくれるが、ウォルトがこの論説の後段で展開しているとおり、それがどこまで現実に妥当するかの考察を行うところにこそ意味があるというべきであろう。
