2024年4月26日(金)

いま、なぜ武士道なのか

2009年11月6日

 会社という組織において、諫言や注意というものは、その仕方がたいへん難しい。諫言された人間は、自分が非難されていると思い込んでしまうからである。昨今では、何か言われたというだけで萎縮してしまう若者も多い。
しかし、その状況を改善するために、欠点を指摘することを恐れてはならない。人心の奥底を読み、真心をもって諫言をおこなえば、諫言もきちんと通じると『葉隠』は語る。

 人の非を語ることは心地よいものである。なぜならば、その当人より自分の方が優れている、と錯覚するからである。例えば、自分の上司や同僚を批判する時の心理がそうである。その当人よりも自分の方が優位に立っていると思うのである。しかし、よくよく考えれば、錯覚であることに気がつく。ここに気がつけば、やがて一級の人物になるであろう。

主人に諫言をするに色々あるべし。志の諫言は脇に知れぬ様にするなり。御気にさかはぬ様にして御曲を直し申すものなり。細川頼之が忠義などなり。むかし御道中にて、脇寄り遊ばさるべくと仰せ出され候節、御年寄何某承り、「某一命を捨てて申し上ぐべく候。段々御延引の上に。脇寄りなど遊ばされ候事、以っての外然るべからず候。」と、諸人に向ひ、「御暇乞仕り候。」と詞を渡し、行水、白帷子下着にて御前へ罷り出でられ候が、追付退出、又諸人に向ひ、「拙者申し上げ候儀聞し召し分けられ本望至極、皆様へ二度御目に懸り候儀、不思議の仕合せ。」などと広言申され候。これ皆主人の非を顕はし、我が忠を揚げ、威勢を立つる仕事なり。多分他国者にこれあるなり。

(現代語訳)
主人に諫言するにもいろいろな仕方がある。真心からの諫言というものは、人に気付かれないようにするものである。ご主人の気にさわらないようにして悪癖を直してあげるものである。細川頼元の忠義などはこの逆である。以前道中にて、寄り道をしようといい出された時、お年寄の一人がこれを聞いて、『自分が一命を捨ててお諌め申し上げる。予定が遅れている上に、寄り道などするとはもってのほか』といった。人々に向かっては、『これにてお別れ』と訣別のあいさつをした。そして、行水をして、白帷子(しろかたびら)を下に着て、殿の前に出た。やがて退出して、また人々に向かって、『私が申し上げたことをご承知され、これほどうれしいことはない。皆様に再びお目にかかることができて、思いもかけぬ幸せ』などと大言を申された。これはみな主人の非をあからさまにし、自分の忠義を誇り、威勢をひけらかす仕方である。概して、譜代でない他国者によくあることである。

 人間の心の奥底まで読み切った処世術である。誰でも、人前で批判されれば反論をしたくなる。自分に非があればあるほど譲れない。それは自己防衛の本能であり、感情でもある。理論で割り切ることができないのもこの辺である。


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