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2010年10月26日

 耳が聞こえない。話すこともできない。生まれつきの障害を抱えながら、弱い立場の人を助けたいと弁護士になった田門浩。聾唖(ろうあ)の弁護士は日本に田門ただ一人だ。

母のように
社会的に大変な人の力になりたい

 田門は、いつも手話通訳とともにいる。依頼者からの相談は、手話通訳が手話に換えて田門に伝える。田門の手話は、手話通訳を介して音声となり、依頼者に届く。こうして成立する会話は、通常のコミュニケーションと遜色ない速さで、まったく違和感がない。手話にはない法律用語が出てきても、意味を表す手話と、五十音を表す指文字を組み合わせて、即席で意思疎通をする。法廷でも同じスタイルだ。

田門 浩(たもん・ひろし)さん            1967年生まれ。東京大学卒業後、千葉市役所勤務を経て98年弁護士登録。現在、都民総合法律事務所に所属。    写真:田渕睦深

 「小学生の時に父が病死し、母子家庭で育ったので、母のように社会的に大変な人の力になりたいと思っていました。中学2年生の時、山田裕明さんという耳の聞こえない人が司法試験に合格して『弁護士になって社会的弱者を助けたい』と話しているのを新聞で読み、私も弁護士を目指そうと思うようになりました」

 「山田さんに手紙を書き、どうしたら私も弁護士になれるのかと尋ねました。山田さんは『一生懸命に勉強して大学に入ることが大事です』と返事をくれました。それまでは聾学校に通っていたのですが、厳しく鍛えられたほうがいいと考え、高校は普通の学校に入りました」

 当然ながら高校には手話通訳はおらず、田門も周囲も互いのコミュニケーションに戸惑った。何より先生の話が聞こえないから授業内容がわからなかった。板書をノートに写し、あとは自分で問題集を解く独学で、東京大学に合格。大学でもしばらくは同じ勉強の仕方しかできなかったが、ボランティアの支援で手話通訳がつくようになった。卒業後に市役所勤めをしながら、1995年に司法試験に受かった。

 「母のような弱者を助けたいという気持ちもさることながら、何よりも母を楽にさせたいと思っていました。母は、私を産んで耳が聞こえないとわかった時、心中しようと思ったそうです。母が、私を産んでよかったと言ってくれたらいいと思ってきました」

 「障害を持つ人は、出会う人の数が少ないこともあって、母親との関係が濃密になることが多いです。ですから、母親が子どもを自分の手から離す決断ができないことも多いようです。母は、私が弁護士になりたいと言った時、『あなたが言うのなら、やりたいようにやりなさい』と決断してくれました。送り出してから、後ろで見てくれていることは感じていました」

 独学で勉強を続けてきたこと。障害があるために、いくつもの高校や弁護士事務所で門前払いを食ってきたこと。田門が今に至る道のりは、壁また壁であった。母への思いを出発点として目標を抱き、目標へと壁を越えていく一歩一歩に母の眼差しが注がれていたことを思うと、目に見えない親子のつながりが、人間の強さを生み出すことを感じずにはいられない。


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