仮に上司と戦って勝ったとしても、つまり、議論して自分の意見を通しきったとしても、「俺はやったんだ」という瞬間的な達成感は得られるかもしれませんが、何の得にもならないのです。人事権をもつ上司に刃向かっても、自分がつぶされるだけでなく、その身を賭して(本質的には身を賭していないのに、自分だけが身を賭していると信じて)指摘したその問題も、おそらく解決することはないでしょう。
もっともっと、自分を徹底的にかわいがることが大事です。
自分を徹底的にかわいがる
以前、ある名門大学の教授が、文部科学省から受けた大きな研究補助金の中から、900万を私的流用(投資信託購入)して、解雇されるという事件がありました。最近であれば、幕内のお相撲さんが大麻で逮捕されました。
私からみれば、どちらも自分のかわいがり方が足りない、と思うのです。教授だって幕内力士だって、企業で言えば役員クラスです。どうしてそんなつまらないことで身を滅ぼしてしまうのでしょうか。自分を徹底的にかわいがれば、身を賭してやることは、そんなつまらないレベルのことにはならないはずです。
かくいう私も、若いころは、今から思えば、異様な正義感に満ちていました。自分はたいしたこともないのに、さらに自分が自己規律も持てないくせに、他人に対しては非常に正義感に満ちて、「許せない」と思うことがよくありました。
あろうことか、トップの人たちに、直接的に「それは、まずいのではないでしょうか」と、ずいぶん直言してしまいました。これは辛いことでした。しかし、少し満足気味でした。
でも、私は、今となっては、これを失敗だったと思っています。60歳を過ぎてから、大いに反省していることの一つです。正直に言って、たくさんの直言は、自分のマイナス点としてしか、蓄積されなかったと思います。
怒りを感じ、日々それを溜め込み、相手を直撃する、というのは、とてもエネルギーを使うことです。しかし、それは、自分の過大な正義感を満たすためだけの、自己満足でしかない場合が多いのです。
そんな時間があったら、小説を読むでもいいし、勉強するでもいいし、昼寝だってかまいません。もっと自分の将来にプラスになることに時間をつかうべきだったと心底思います。
ある種の「くそまじめ」は大事です。まじめさは自分に力を与えてくれます。まじめな人が最後に一番強い。まじめであるということは誠実であり、正直であり、ぶれないということです。そういう態度で一貫していれば、誰も最後は反論できないし、文句のつけようがないからです。でもそれはあくまで自分の心の持ちようであって、会社という組織で、「まじめさ」だけで上司に楯突くこととはまったく違うのです。
どんな上司も気に入らないもの
私はビジネスマン時代、100人近くの上司に直接仕えましたが、どの上司も気に入りませんでした。そもそも、上司というのは、すべて気に入らないものだと私は思っています。
どんなに気に入らない上司でも、会社という組織の中にあっては、上司の命令は絶対です。ですから、どれほど気に入らない上司でも、言われたことの大部分はそのとおりにやったほうがいいのです。
ただし、心の中では何を思おうと自由です。だから口にも顔にも出さず、心の中だけで「コノヤロウ!」と思う訓練をします。
若いころは、「理不尽とも思えることば」を受けると、「なんで自分が」といった屈辱感が先に立ちます。そして、それが顔や態度に出てしまいがちです。しかし、不思議なことに、どんなに気に入らない上司の命令でも、我慢して聞いて、一つひとつ実行していると、けっこう実力がつくものなのです。
これは後からわかることで、そのときはカッカするばかりです。心の中でなら、どんなに悪態をついてもかまいません。だけど表面上は上司にはペコペコしておくのがよいのです。これが「金児昭のペコペコ・サラリーマン哲学」です。
部下としてできること
あってはならないことですが、上司から法律にふれそうな指示を受けたときはどうしたらいいでしょうか。
法律違反にならないと確信がもてないときは、いったんは、おそるおそる、「これは法律違反になるんじゃないでしょうか」と、言ったほうがいいと思います。 そして、「何年何月何日、これは法律違反になるんじゃないでしょうかと私は言った」と日記に書いておきます。人には言わず、自分だけの「マル秘」です。部下としてできることは、それだけです。
私は、尊敬する小田切新太郎社長が常務取締役のころ、「仕事ができることよりも、口が堅いことが大事だ」と教えられました。本当にまったくそのとおりだと思います。日記に書き込むことは、口が堅いことと、せめてもの達成感を両立させるやり方だと思います。
心のなかに「まじめさ」を保ちながら、うまく気分転換してストレス発散させながら、表面上はペコペコする。そういう心持ちでビジネスパーソン人生を歩んでいくことは、とても大切なことである、と私は考えます。