主室8畳に6畳がつく二間続き、床の間、床脇が備わる書院風の造りで、南側に畳8枚もの広縁が設けられている他は、温泉宿の落ち着いた佇まいである。だが、ご案内いただいた宿の方によれば、「掛け軸の裏に隠し通路が設けられていたという話もあります。VIPをご案内するお部屋でした」。
翌日、漱石は改めて本館に案内され、部屋からの眺めに満足したまではよかったのだが、肝心の胃潰瘍が日に日に悪化する。8月17日には吐血し、東京から妻の鏡子や掛かりつけの医師らが呼び寄せられる。24日夜には大量吐血し、一時、人事不省に陥った。医師は多数のカンフル剤を打って意識を呼び覚まし、危険な状態は朝まで続いた。
生きて仰ぐ 空の高さよ赤蜻蛉
危篤の報を受けて、友人知人が修善寺に駆けつける中、容態は次第に回復に向かい、9月半ばには氷嚢が外せるまでになった。10月11日、宿の者4人に特製の寝台を担がれ、馬車と電車を乗り継いで、三島から東京へと帰った。
生きて仰ぐ
空の高さよ赤蜻蛉
大患の後の漱石の句である。生死の境をさまよう体験は漱石の死生観に大きな変化を与え、その後の創作に深い影響を及ぼした。後期の三部作、とりわけ『こころ』にはそれが十分にうかがえるだろう。
だが、漱石の胃弱との闘いは終わることがない。この6年後、胃潰瘍をこじらせて世を去ることになるのだが、苦闘の末に世に送り出された作品は、今なお、日本人に深く愛され続けている。
