2026年1月17日(土)

絵画のヒストリア

2026年1月17日

 英文学者の夏目金之助、のちの漱石が文部省留学生としておよそ2年間のロンドン留学を終え、日本郵船の博多丸で帰国したのは1903(明治36)年1月23日である。

◆夏目漱石(1867-1916)(Ogawa Kazumasa, Public domain, via Wikimedia Commons)

 「倫敦に住み暮らしたる二年は尤も不愉快の二年なり」と回想するのは、孤独な異郷の暮らしで神経衰弱に陥ったという理由からだけでは、おそらくあるまい。

 「余は英国紳士のあいだにあって狼群に伍する一匹のむく犬の如く、あはれなる生活を営みたり」と金之助は振り返っている。

 留守宅には二人の幼子をかかえた妻の鏡子が待っている。熊本の五高教授という前職に辞表を出して得た300円の退職金をまず当面の方便にあてた上で、どうにか手にしたのが帝国大学文科大学の英文科講師というポストである。

 ところが4月20日にはじめて金之助が大学に出講してみると、英文科の教室の学生たちの反応が冷たい。理由はテクストに指定したジョージ・エリオットの小説『サイラス・マーナ―』に対する不満だけでは、どうやらない。

 〈学生たちの反発の背後には、金之助の前任者ハーンが大学を「追われた」ことに対する同情もひそんでいた。ハーンが文科大学英文科講師に任命されたのは、明治二十九年(1896)九月である。このとき彼はすでに日本に帰化して小泉八雲と名乗っていたのでお雇い外国人として任用することには法律上疑義があったが、当時の文科大学学長外山正一の特別のはからいで、月俸四百円で採用されていた〉(江藤淳『漱石とその時代』)

小泉八雲(1850-1904)(Frederick Gutekunst, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 ハーンはすでに日本に帰化して小泉八雲となっていたが、日本人の2倍の俸給を得ていたことに加えて、文部省はお雇い外国人に依存してきた大学教員を官費留学で西洋から帰った日本人に置き換えていく方針に転じようとしていた。帝大講師のポストをめぐる八雲と漱石の衝突は、そうした脱亜入欧の時代の転換期を象徴する一場面でもあった。

 八雲が大学から解約されると知った学生たちは、3月の最終講義が終わると留任運動をはじめた。1年生の金子健二は日記にこう記している。

 〈三月二日(月)晴、暖、正午英文科学生一同二十番教室に集合、小泉八雲先生辞職問題に関する善後処置と留任運動開始の件、夏目金之助氏新任に関する文科大学長井上鉄次郎氏の所見聴取の件、英作文・会話等に重点を措こうとするスウイフト氏の態度について糾明する件等々がその協議事項であった。そしてこの目的を貫徹する為に井上学長の英文科教育に対する理想と、またその方針とを質問することが先決問題である事に衆議一決した〉(『人間漱石』―ヘルン先生留任運動の余燼)。


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