その西洋館はスパニッシュ・ミッション様式と呼ばれた。
1927(昭和3)年の竣工という建物の外観は、たしかにスペインの中世の教会建築を彷彿とさせる、重厚でいささか息苦しくさえある意匠があちこちにのぞいている。
正面玄関へ向かう階段の入口は、両側に実物大の子羊を象った花崗岩の石像が迎える。アプロ―チの石の階段の踊り場には、テラコッタの大きな植栽鉢に小噴水……。
鮮やかな橙色の屋根瓦の上に鐘堂を模した尖塔部を頂く母屋は、地上3階、地下1階で外壁は白地に褐色の装飾タイルがほどこされている。すべての部屋の窓は僧院風の古風な黒いスチールサッシと面格子が施されている。それはあたかも、外界の世俗とミステリアスな屋内の空間を厳しく隔てるように、窓辺を覆っているのである。
神戸市中央区野崎通り、現在は新神戸駅がある高台につらなるこの屋敷を施主の美術蒐集家、池長孟は「紅塵荘」と名づけた。眼下に望む神戸製鋼所の煙突が吐き出す煙が、空を紅色に染めたからだという。
北欧風の栗の木の長椅子を置いた玄関ポーチから足を踏み入れると、1階の居間兼客間はインド風で壁はコルク材、ファイアープレイスには群青色の泰山タイルが張られている。二階のホールは中国風、食堂はオーク材を使った英国風。そしてスパニッシュ風につくられた3階のホールは舞踏会が開けるようにオーケストラボックスまで付設されていた。
しかし、これは人が日常的に住まう場としての邸宅というより、主人の池長孟が蒐集した「南蛮美術」と呼ばれる絵画や屏風、家具調度などの美術品をおさめて展示し、人々に披露してまじわるための社交の空間である。その意味ではあくまでも非日常的なショーウィンドーであったに違いない。
昭和後期のテレビで毎週、欧米の名作映画を放映する「名画劇場」の軽妙な解説で親しまれた映画評論家の淀川長治の姉、富子が、池長孟と再婚してこの紅塵荘に住んだのは1928(昭和4年)の竣工間もない一時期だったようである。
