淀川がその『淀川長治自伝』に記している。
〈さて池長氏は兵庫の旧家の名門で植物研究所も設け、育英商業の校長で、のちに有名な池長美術館(南蛮美術絵画コレクション)の設立者でもあるが、姉と知り合ったころは四十歳前後、亡妻のあとに三人の幼児があった。つまり姉はこの池長氏の後妻ということになる。(略)新宅に三年もかけ、この豪邸の出来上がりとほとんど同時に姉のいっぽう的な喧嘩別れという、あわただしい勝手気ままの別れがやってきた。三人の子供は姉になつき、姉のいうがままの豪邸であったのに、姉はこの屋敷がいんきで暗いと怒り、自殺未遂事件までおっぱじめ、池長氏にさんざんめいわくをかけて二人は別れたのであった〉
派手な富子と蒐集へ傾倒する池長
富子と長治は兵庫の古い花街、西柳原にあった芸者置屋の姉弟である。
幼いころから「活動写真」にとりつかれて映画館に入りびたりの弟に対して、姉の富子は美貌と奔放な行動力で界隈ではよく知られた女性だったらしい。淀川は自伝のなかで、詩人の竹中郁が地元のタウン誌に書いた姉の横顔を紹介している。
〈淀川のお富さんは派手な人だった。いつだったか、兵庫幼稚園の同窓会があって、十二、三名が集まってのその帰りに、お富さんはアンタとアンタとアンタと……と七人ぐらいの仲間を指さして、私の家で遊びましょうと誘う。その誘い方が板についていて、しかもその名指された者がみんな男ばかり。そして淀川はんの家へゆくや、さっそく近くの「高助」からみんなにテンドンをふるまった。そのふるまい方が板についていた〉
親の決めた結婚が意に添わず、婚家から出戻って芸者となったが、客とけんかして5日で辞めた。独り身となった富子は、今度は「ハイカラな喫茶店をやりたい」と祖母からの金策で新開地に「オリオン」というカフェを開いた。瀟洒(しょうしゃ)な構えと紅茶はリプトン、ココアはバンホーテンとブランドにこだわった店は、21歳の美しい女主人とともに人気を集めて、神戸の文化人たちも立ち寄るようになった。
その客として店を訪れた池長孟が富子と出会ったのは開店からほどない1923(大正12)年ころである。資産家の長男として兵庫に生まれ、京都帝大法学部を出て家業の育英商業学校の経営と教育を引き継いだが、その後の池長がもっぱら情熱を傾けてゆくのは、潤沢な親譲りの家産を元手とした文化支援と美術品の蒐集であった。
植物学者の牧野富太郎が浪費を重ねた挙句、30年にわたって集めた10万点に及ぶ植物標本を散逸させる瀬戸際にあると聞いて、京大の学生だった池長はすぐさま東京の牧野を訪れ、支援と救済を申し出た。一帝大生が大金を投じて著名な植物学者の膨大な標本を危機から救い出すという目論見は、「美談」として大きく新聞紙面を飾った。
池長は乱脈な牧野の生活への援助に加えて赤字に陥っていた植物研究雑誌の支援者となり、さらに市内に「池長植物研究所」を設けて、貴重な牧野の植物標本を収めた。ふんだんな資産の後ろ盾があったとはいえ、こうした〈蒐集〉という行為へのほとんど見境のない池長の情熱が、のちの〈南蛮美術〉の蒐集への傾倒とその〈うつわ〉としての「紅塵荘」という、奇想に包まれた館の建築に結晶していったのである。
1917(大正6)年に加古川の名家の娘、正枝と結婚して3人の子をなした池長は、育英商業の経営の傍ら世界を漫遊して欧米各地の美術館でおびただしい美術品の蒐集に触れた。美しいものを集めること、とりわけ古来日本人のエキゾチシズムを掻き立ててきた「南蛮」、つまりアジアの先に広がる西欧の異文化へのあこがれに、池長は強く惹かれてゆくようになった。
〈蒐集に着手したのは昭和になってからだ。それも最初は長崎版画ばかり集めるのに5、6年もかかった。それからいよいよ病膏肓に入り、急に加速度が出て肉筆やあらゆるものを集め、昭和8年年頭に私蔵図録の豪華版「邦彩蛮華大宝鑑」を創元社から出版した時にはすでに大体において完成していた。しかしその後南部屏風等の秘宝を入手し、追加に追加を重ねてついに大成するに至り、昭和15年4月、熊内の高台に建設した美術館で初めてこれを公開したのである〉
戦後の1955(昭和30年)、池長が蒐集した南蛮美術のあらかたの寄託を受けて収蔵した市立神戸美術館(当時)による「南蛮美術総目録」の序文で、晩年の池長はこの〈南蛮美術〉のコレクションができ上がった経緯をこう振り返っている。
