2025年12月7日(日)

絵画のヒストリア

2025年11月16日

大金を払い手に入れた看板作品

 いま神戸市立博物館が所蔵する『泰西王侯騎馬図』は、キリシタン出身の日本人画工の手になる日本初の西洋画として、美術史的にもきわめて重要な作品と評価される。

「泰西王侯騎馬図屏風」    (神戸市立博物館, Public domain, ウィキメディア・コモンズ経由で)

 きらびやかな金地に4人の西洋の騎士たちのダイナミックな戦闘場面を描いた4曲1双の図屏風である。

 モデルは神聖ローマ皇帝ルドルフ2世、トルコ皇帝、モスクワ大公、タタール王で、馬上で刀を振り上げ、手綱を操る姿が色鮮やかに浮かび上がる。欧州へ攻め込むアジアの軍勢に対峙する欧州の帝王たちをたたえたこの作品は、1606年から07年にアムステルダム刊行されたウィレム・J・ブラウ世界地図を改訂したカエリウス版(1609年)の上部の装飾から採ったものといわれている。

 画面には遠近法や陰影などの西洋画の手法が取りこまれているが、紙と金箔、彩色などには日本美術の素材が使われている。1611年から14年のあいだに長崎経由で持ち込まれた地図の原画をもとに、当時の日本人のキリシタン画工の手で描かれた「最初の西洋画」の代表的な作品と今日では評価されている。

 この図屏風が池長の手に落ちて「紅塵荘」を飾る蒐集の看板になるのは、文字通りその〈南蛮熱〉のがもたらした必然的な結果であったのかもしれない。

 1932(昭和7)年6月、池長のもとに東京の高見澤木版社というところから長崎版画の目録が届けられ、その縁で同社の高見澤忠雄から山口県萩の尊皇派の志士、前原一誠の一族が持つ「泰西王侯騎馬図」という金箔地の図屏風の存在を知った。すでに美術誌の『国華』などで紹介されていて、以前に萩の一族の屋敷で実物を見た高見澤はその輝きに息をのんだのである。何度か萩への行き来を重ねたが、3000円、5000円と買い取りの価格を上げても一族は売却に消極的で、高見澤は諦めかけていた。

 この話を聞いて池長は奮い立つ。翌年、2万2500円という当時としては破天荒な値段を提示して、「泰西王侯図屏風」を一族から買い取ることにようやく成功した。

屏風絵に飛び交う〝説〟

 ミステリアスな来歴を持つ屏風絵である。

 もともとは会津藩主松平家の所蔵であったが、戊辰戦争で兵部大輔として会津若松城に入城した前原が、降伏した松平容保から下賜されたという。しかし、そもそもこの17世紀初頭に描かれたという、キリシタン画工の手になる「日本初の西洋画」が、なぜ会津松平家にあったのか。

 安土桃山時代、織田信長に仕えたキリシタン大名の蒲生氏郷が江州日野城の障壁画として描かせ、会津へ転封の折りに持ち込んだという説を、池長はのちに紹介しているが、必ずしも史実と符合はしない。あるいはキリシタンゆかりの諸侯へ向けたイエズス会の攻略的な贈り物とする説もある。

 作者については「日本人のキリシタン画工」とする説が有力である。なかでもキリシタン大名有馬氏の旧臣で、セミナリオで西洋画を学んだのち島原の乱に加わり、原城にたてこもって落城後ただ一人生き残った山田右衛門作(やまだうえもんさく)という見立てがある。棄教して転向し、江戸でキリシタンを取り締まる目明しを務めたともいわれる人物である。

 『金箔の港 コレクター池長孟の生涯』(高見澤たか子著)はこう推理している。

〈この「泰西王侯騎馬図」については、地図帳の小さな絵を屏風の大きな画面いっぱいに引き延ばした画家の力量が、並々ならぬものであることに注目し、当代一流の狩野派の画家で、しかもイエズス会と親密な立場にあるものを想定する研究者もいる。もちろん、使用された絵具はすべて日本特有の高価な岩絵具である点も見逃せない〉

神戸市文書館(旧池長美術館)(Jnn, CC BY-SA 3.0 , via Wikimedia Commons)

 池長は手狭になった「紅塵荘」に代えて1940(昭和15)年、熊内の地に新しい住まいを付設した池長美術館を建設し、大半の蒐集を移転した。戦後は神戸市に委譲され、コレクションの大半は神戸市立博物館に委ねられている。

 役割を終えた紅塵荘は戦後、その重厚なスパニッシュ・ミッション様式の建築を維持したまま地元の病院に売却され、外科病棟として使われてきたが、老朽化で2015年に解体された。

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