文化元年(1804)の初秋のことである。
日光例幣使街道の宿駅、栃木の豪商として知られた釜善こと善野伊兵衛の屋敷に、隠棲していた人気浮世絵師の喜多川歌麿を訪ねて江戸から3人の来客があった。
戯作仲間だった山東京伝、十返舎一九、そして栄松斎長喜である。
〈みなさん、ようこそお出で下さいました。ありがとう。いや、こんどの手錠50日はまったくこたえましたよ。京伝さん、あなたが私と同じ刑をお受けなさったのは寛政3年でしたね。まだお若かったから回復なさった。私はこの年だから、すっかり弱ってしまいましたよ。ま、この年でつかまらなかったのを喜ぶべきかもしれませんが〉
これは美術史家の新関公子さんが『歌麿の生涯』(展望社)のなかで、想像力豊かに描いている老境の歌麿の一景である。
寛政の改革のもとで険しさを増した江戸の出版統制は、権力への風刺や華やかな時代風俗を描いた浮世絵ばかりでなく、地口(ぢぐち)と呼ばれる社会風刺の文藝を掲載した黄表紙などの出版物にもおよんだ。売れっ子だった歌麿ら浮世絵師のほか、山東京伝ら戯作者たち、さらにはその版元として彼らを支えた蔦重こと蔦屋重三郎らにも手鎖(手錠)の刑や過料、財産の没収などの重い処分が繰り返された。
この年の5月、歌麿は『絵本太閤記』に取材した作品が摘発されて、歌川豊国とともに「筆禍」の処分を受けた。入牢3日、手鎖50日という厳しいもので、版元の大阪屋嘉兵衛にも過料15貫文、原本の『絵本太閤記』は絶版となった。
『絵本太閤記』は太閤豊臣秀吉の一代記で、この読本に収められた逸話が浄瑠璃や歌舞伎で上演されるなど、当時のベストセラーである。これを題材にして「醍醐の花見」など、太閤秀吉の栄華をきわめた生活を風刺まじりに描いた歌麿の浮世絵は、とりわけ人気が高かった。筆禍の対象となった作品の一つが、歌麿の「太閤五妻洛東遊観之図」と題する三枚続きの大判錦絵である。
花見遊山の秀吉が宴席で稚児の三成の手を取り、遊女のような女性を席に侍らせて杯を重ねるという、「醍醐の花見」の一場を面白おかしく描いた図柄が評判を呼んだ。
この絵が摘発にいたる経緯を、歌麿と同じ戯作仲間だった狂歌師の太田南畝が『半日閑話』のなかで記している。
〈文化元子年五月十六日、絵本太閤記絶板被仰渡、江戸にて右太閤記の中より抜出し錦画に出侯分も不残御取上げ、右錦画書候喜多川歌麿、豊国など手鎖、版元を十五貫文過料のよし、絵草紙屋への申渡書付有侯〉
田沼意次時代に深まった幕藩体制の危機をとらえて、老中松平定信がすすめた寛政の改革のもと、幕府の出版統制の対象は権力への批判や歴史の風刺などのほか、奢侈や華美な風俗、わいせつな表現など、社会秩序の紊乱(びんらん)を招くおそれのある著作物全般へ向けられた。
