当時の江戸や大坂などの都市では、地口や黄表紙などの戯作や花柳界を舞台にとった歌麿らの浮世絵が人気を集めており、メディアの表現の領域が広がっていた。
為政者が大衆の放縦や無秩序を嫌うのは、時代と場所を選ばない。加えて長引く鎖国体制のもとで、幕府は都市の町人文化の成熟とともに広がるメディア表現に新たな〈脅威〉を見出していたのであろう。
歌麿が被った「絵本太閤記」をめぐる筆禍事件では、何が咎められたのか。
歌麿が処分を受けた直後の文化元年(1804)5月17日、地本問屋行事(小説や絵草紙などの出版流通問屋)にあてて出された触文(ふれぶみ)を、現代文に訳して『類集撰要』から引く(佐藤至子著『江戸の出版統制』)。
〈 一枚絵・草紙類について、天正の頃以来の武者などの名を記すことはもちろん、紋所・合印、名前などを紛らわしく書くことも、してはならない。
一枚絵に、和歌の類ならびに風景の地名、相撲取り・歌舞伎役者・遊女の名前は別として、ほかの詞書はいっさい書いてはならない。
色摺を施した絵本・草紙などを最近多く見かけるが、不埒である。以後、絵本・草紙などは黑だけで出版し、色を加えてはならない。
右のとおりに心得て、このたび絶版を申し付けたもののほかにも、この申し渡しに違反しているものについては、行事たちが早々に糺して絶版し、今後はなおざりにすることのないようにせよ。もし違反があれば絵草紙は取り上げて絶版を申し付け、その品によっては厳しい咎めを申し付ける〉
歌麿が隠棲する栃木の釜善の離れ屋敷に山東京伝や十返舍一九を迎えたのは、この筆禍による処分からひと夏を越えた、秋の一日ということになる。
厳しい江戸後期の出版規制
歌麿がここで客人たちに披露したのは、吉原と深川と品川という江戸の廓の四季を肉筆で描いた大作「雪月花」の三部作である。
晩年の歌麿の手に成るという「雪月花」の三部作は「深川の雪」「品川の月」「吉原の花」とそれぞれ題されている。それぞれ縦2メートル、横3メートルを超える大きな画面に肉筆で描かれた浮世絵の傑作である。いずれの作品も当時の江戸を代表する遊郭を舞台にしており、花魁やその周囲の女性たちの華やかな群像が移ろう季節の中に描き出されている。
のちに欧米を席巻するジャポニスムの薫り高い大作で、内外の蒐集家が入手を競って流転を重ねる運命をたどることになる。
歌麿の境涯は謎が多い。生年も出生地もはっきりしない。
狩野派の系譜をひく町絵師、烏山石燕に師事して「画本虫撰」など、当時流行の狂歌絵本に細密な写実画を描いて評判を高めた。花鳥や女性、風俗画から春画まで、幅広い素材をこなし、一躍流行画家として圧倒的な地位を固めるきっかけが、版元の蔦谷重三郎と知り合い、重用されて売れっ子になったことである。
一時は自ら重三郎(蔦重)の住まいに工房を置いて同居するなど、その出版活動を支えた歌麿は狂歌絵本や黄表紙挿絵といった出版物から、やがて「美人大首絵」という独自の美人画の様式を確立して「青楼画家」(妓楼を描く画家)と呼ばれるようになった。
長い鎖国体制の下、江戸の巷では世相や人物を風刺した狂歌が大流行した。蔦重と歌麿や南畝は親密なプロデューサーとクリエーターという関係のなかで、人気の浮世絵や黄表紙などで一躍成功をおさめたのである。
ところが「寛政の改革」にみる江戸後期の出版統制が、彼らの歩みに影を落とす。
