2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年8月11日

 若くて貧乏な荒削りの画工歌麿に秘められた類いまれな才能を見抜いた蔦重は、自宅に居候させ、美人を描かせたら右に出る者がいない浮世絵師に育てた。蔦重は、どう仕掛けたのか。大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」をもっと楽しむための一冊『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。

〝最大のライバル〟清長

「六大浮世絵師」といえば、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、安藤広重を指すが、蔦重は後発の書肆であるにもかかわらず、春信を除いたすべての画家と関わっていた点が出色で、特に蔦重が活躍した江戸中期から後期にかけて関わった「3大浮世絵師」を活躍順に挙げると、春信、清長、歌麿ということになる。

 春信は、多色摺の木版画「錦絵」の創始者として知られ、繊細で流麗な絵を描いた明和期(1764~1772年)を代表する浮世絵師で、清長が天明期を代表する浮世絵師なら、歌麿は寛政期以降を代表する浮世絵師だった。

 式亭三馬は『稗史億説(くさぞうしこじつけ)年代記』のなかで、清長と歌麿を次のように評した。

「鳥居清長、当世風の女絵一流を書き出だす。世に清長風という」

「うた麿、当時の女絵を新たに工夫する」

 歌麿は、当初から才能はあったが、努力もすごかった。歌麿がトップスターの座に君臨するまでの浮世絵界の大スターは鳥居清長で、何人もの女性を同一画面で描く際の構図が絶妙で、歌麿は清長の真似をすることで追いつこうと必死に頑張り、やがて独自の絵を完成させ、ついには清長人気を抜き去ることに成功したのである。

 清長が描いた美人画は、三大揃物といわれる「当世遊里美人合」「風俗東之錦」「美南見十二候」に見られるように、背が高く健康的で清楚な全身像の女性だったが、歌麿のそれは、体の部分を省いて上半身だけを描いた「大首絵」からわかるように、繊細で色っぽい顔の表情に大きな特徴があった。

 清長と歌麿は、清長が1歳上と年齢こそ近似していたが、それ以外は何から何まで対照的で、性格の違いも顕著だった。

 清長は温厚でおとなしく、周囲と協調するタイプだったが、歌麿は個性的で気性も好き嫌いも激しく、周囲に溶け込めないタイプだった点が2人の天才画家の違いである。


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