2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年8月11日

ダブル対決(西村屋 VS 蔦重、清長 VS 歌麿)

 清長をほぼ独占していた版元は、「永寿堂」の屋号で日本橋馬喰町二丁目で地本問屋を営む初代の西村屋与八だった。鳥居清長らの錦絵で売り出し、清長人気に火をつけたのだが、初代は歌麿にチャンスは与えはしたものの、隠れた才能に気づかず、清長に目をかけ、歌麿を干したことで繊細で誇り高い歌麿は傷ついていた。

 一方、蔦重は清長を起用して「雪月花東風流」などを手掛けたものの、清長という逸材には〝西村屋からの借り物〟という意識がついてまわり、誰か別の浮世絵師を育成する必要性を痛感していた。そんなときに、くすぶっている歌麿が目についたのだ。蔦重は歌麿を〝清長の対抗馬〟に育てようとして拾い、自宅に居候までさせて、才能に磨きをかけさせた。

 歌麿は、蔦重の期待に応えて〝覚醒〟し、新境地を開拓、さまざまな仕事をこなしながら、ついには美人画の「大首絵」という新技法で浮世絵人気を独り占めにする。ものの見事に開花し、大活躍するようになった歌麿を、初代はどんな思いで見ていたのだろうか。

 清長は、サナギから蝶へと脱皮して大変身を遂げた歌麿とは対照的に、新境地は目指さず、〝清長風〟を続けた結果、次第に人気が離散していったのだった。

「永寿堂」西村屋与八は3代目まで続き、2代目与八には鱗形屋孫兵衛の次男が養子として入り、筆禍後に落ち込んだ山東京伝を励まして『昔語紫色挙』を書かせ、柳亭種彦を世に出すなど、辣腕を振るった。なかでも柳亭種彦の『お仲清七正本製楽屋続絵』(正本は芝居の脚本)は、画工に国貞を起用したことも受け、ベストセラーとなっている。

 その大ヒットをただ指をくわえて見ていなかった同業者が鶴屋喜右衛門で、種彦に声をかけ、画工に豊国を起用した『偐紫(にせむらさき)田舎源氏』を1829(文政12)年に刊行すると、以後14年も続く〝源氏ブーム〟を巻き起こしたのだった。

歌麿はどういう性格だったのか

 再び歌麿の話である。

 歌麿の性格を一言でいうと、「傲岸不遜」。腕に自信があったからか、負けず嫌いで鼻っ柱が強く、意固地な性格だったが、研究熱心で当初は北尾重政を模倣し、次いで清長や春章を模倣した。たとえば、東京国立博物館蔵の大判錦絵「当世踊子揃 鷺娘」(1775〈安永4〉年)「青楼仁和嘉女芸者之部」(1783〈天明3〉年)からは、清長や春章を模倣したことがはっきりと見てとれる。

 なぜ模倣したかといえば、素直に素晴らしいと思った浮世絵師を越えるには、模倣から入ってその技法を盗み取り、それを越える作品を描こうとする貪欲な信念と気骨が歌麿にはあったのである。執念と呼んだ方がいいかもしれない。

 それが、寛政年間(制作年は特定できない)の作品になると、進化する。たとえば、大判錦絵「婦人相学十躰」のうちの1枚で、タオルを手にした湯上りの女のはだけた胸元から片乳が覗く「浮気之相」では、背景を描かずに「雲母」をべったりと塗るなど、独創色がきわだった。ここまで女の色気を感じさせる絵はそれまでなかったのである。

 名画を模写して腕を磨こうとする画学生や画家は、昔も今もいっぱいいるが、そうすることで大きく飛躍する者は限られている。飛躍できる者とそうでない者との差は、努力の差ではなく、才能の差である。だが、それだけでは成功できない。その才能を活かせるチャンスを与えてくれる人の助けがいる。それが蔦重だった。

 蔦重がいなければ、歌麿は類いまれな才能を発揮できないまま、陽のあたる場所へ出ることもできず、埋もれたままで生涯を終えていたかもしれない。

歌麿は女性の内面や日常に鋭く切り込んだ (『婦人相学十躰 煙管持』(東京国立博物館/ColBase)

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