2025年12月5日(金)

Wedge REPORT

2025年8月11日

〝秘蔵っ子〟歌麿、羽ばたく

 天明狂歌ブームは、浮世絵にも影響を与えた。その傾向は、歌麿といえど無視できなかった。天明年間の歌麿の主な仕事を追ってみると、次のようになる。

天明4(1784)年 歌麿32歳・蔦重35歳
〇女流戯作者亀遊(喜三二門人)の黄表紙『亀遊双帋』の挿絵
〇黄表紙の体裁をとった狂歌2種の挿絵―『太の根』(角書「後編 栗の木」)と『金平子供遊』(中本2巻2冊)
〇日記・地誌『古湊道中記』の挿絵
〇志水燕十作の艶本『とこよぐさ』(小本1冊)の挿絵

天明5(1785)年 歌麿33歳・蔦重36歳
〇狂歌双六『夷歌連中双六』(1枚)の挿絵を「画工筆綾丸」で描く

天明6(1786)年 歌麿34歳・蔦重37歳
〇狂歌絵本『絵本江戸爵(すゞめ)』(半紙本3巻3冊/大英博物館所蔵)
〇狂歌絵本『潮干のつと*』(大本1帖/あけら菅江) 
 *潮干狩りの土産=貝

天明7(1787)年 歌麿35歳・蔦重38歳
〇狂歌絵本『絵本詞(ことば)の花』(半紙本5冊)蔦重、序を号「重三郎」で書く

「頃や、よし」と蔦重は判断し、歌麿に「よく我慢した。これから大々的に売り出すから、そのつもりでやってくれ」と発破をかけ、「虫」をテーマにした絵を描かせた。

 すると、観察力に目をみはるものがあり、歌麿は新境地を開いた。翌1888(天明8)年正月に発売されるや、絶賛の嵐となった絵本『画本虫撰(むしえらみ)』(大本2冊)が、それである。歌麿の知名度は急上昇した。と同時に、蔦重の才能を発掘する眼力や出版人としてのプロデュース力が尋常ではないことも、改めて実証されたのである。

 絵本『画本虫撰』が世に出た明くる年(1889〈天明9〉年)には、1月29日に「改元」があって、寛政元年となった。その年に歌麿は、狂歌絵本『狂月望(きょうげつぼう)』(大本1帖/紀定丸編)をはじめ、黄表紙、黄表紙仕立ての咄本など5冊の挿絵を描いた。

○黄表紙『嗚呼奇々羅金鶏』(中本2巻2冊/山東京伝/角書「淀屋宝物 東都名物」)
○黄表紙仕立て咄本『炉開噺口切』(中本2巻2冊/うき世伊之介)
○狂歌絵本『絵本譬喩節』(半紙本3冊)
○狂歌絵本『絵本和歌夷』(半紙本1冊/宿屋飯盛)
○狂歌絵本『絵本百囀』(半紙本2冊/奇々羅金鶏撰)

 明くる寛政2(1790)年も6冊の本に挿絵を描き、蔦重も歌麿も乗りに乗った感があり、耕書堂が発行する本はどんどん増え続け、蔦重の知名度も上がっていった。

蔦重が「歌麿のお披露目」を演出

 ここで少し時代を遡る。1782(天明2)年秋のある日のことである。上野は忍岡にある料亭で「戯作者の会」が開催され、大勢の招待客が集った。彼らは、江戸文化を代表する著名人たちばかりだった。

 戯作者では、恋川春町、朋誠堂喜三二、志水燕十、立川焉馬。狂歌師では、四方赤良(大田南畝)、朱楽菅江、森羅万象、南陀伽紫蘭、山手馬鹿人。浮世絵師では、北尾重政、勝川春章、鳥居清長ら。

 招いたのは歌麿で、事前に、こんな口上書を通知していた。

「口演 此度画工哥麿義と申、すり(摺)物にて去ぬる天明二のとし秋、忍ぶ岡にて戯作者の会いたし候より、作者とさく者の中よく、今はみな〳〵親身のごとく成なり候も、偏に縁むすぶの神、人々うた麿大明神と尊契し御うやまひ可レ(=返り点)被下候。 以上

  四方作者どもへ

       うた麿大明神 」 

 この案内文は、大田南畝が自宅を訪れた者から入手し、記録していた『蜀山人判取帳』に貼ってあった摺物の一つで、その文面からは「会の主催者は歌麿」ということになるが、「金を出したのは蔦重」だった。会の目的は、単なる文壇仲間の親睦会ではなく、「歌麿を蔦重専属として大々的に売り出すための披露パーティー」と蔦重は位置づけていたのである。忍岡にある料亭を会場に選んだのは、当時、歌麿が住んでいた場所が忍岡だったからで、そういうところにも蔦重の細かい心配りがあった。

 文中の「作者とさく者の中よく」は「作者と作者の仲良く」の意味だとわかるが、「偏に縁むすぶの神。人々うた麿大明神と尊契し御うやまひ可被下候」は言葉足らずでわかりにくい。次のように言葉を補って解釈するとわかりやすくなるだろう。

「作者仲間が親身になれたのは、ひとえに縁結びの神のご利益、すなわち、この歌麿のおかげでありますから、どうか皆様、この私めを〝うた麿大明神〟と尊敬かつ契りを結んでくださるようお願いする次第であります」

 読者のなかには、「招待客には歌麿よりはるかに年配の人もいるにもかかわらず、自分自身を〝うた麿大明神〟などと呼ぶのは傲岸不遜ではないか」と思う方もおられよう。だが、会場に集まった戯作者や画工たちは、歌麿が前年に画工としてたずさわった黄表紙に事寄せて、わざとそのような言い方をしたということがよくわかっていたから、無礼でとも思わなかったし、違和感も覚えなかったのである。

 そのわけを説明しよう。前年の1781(天明元)年、蔦重は、歌麿を大々的に売り出すための秘策を練った。そして先ず〝軽いウォーミングアップ〟として志水燕十の黄表紙『身貌大通神略縁起』の挿絵を画く仕事を歌麿に割り振った。

 戯作者の志水燕十は歌麿と同じ石燕門下の兄弟子であり、日頃から親しい間柄。そういう配慮も蔦重はしたのである。そのとき、それまで「豊章」と名乗っていた歌麿に初めて「歌麿」を名乗らせた。そういう仕掛けをさらっとやってのけるのが蔦重なのだ。

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