大河ドラマ『べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜』では、安田顕の熱演が視聴者の記憶に深く刻まれた平賀源内。そんな源内が、吉原のガイドブック『吉原細見』の序文に寄せた「吉原遊女論」とは、どのようなものだったのでしょうか。ここで詳しくおさらいしてみましょう。『江戸の仕掛人 蔦屋重三郎』(城島明彦 著、ウェッジ刊)より抜粋してお届けします。
『吉原細見』が本屋商売の出発点
吉原のガイドブック『吉原細見』は、通常、正月と7月の2回発行された。
「細見嗚呼御江戸」という序題がつけられた『吉原細見』が売り出された年月は、序文の最後の行に「午(うま)のはつはる 福内鬼外戯作」と記され、奥付に「安永三甲午歳」とあることから、1774(安永3)年の正月と知れる。福内鬼外は、源内の戯号の1つである。
その年は、蔦重が『根南志具佐(ねなしぐさ)』や『風流志道軒伝』*を読んだと思われる14歳のときから数えて11年後で、25歳になっていた。
蔦重は、鱗形屋版の『吉原細見』を吉原の大門そばの店で販売することになった縁で、鱗形屋の経営者孫兵衛と次第に親しい間柄になり、意見交換する機会も増えていた。
蔦重は吉原の諸事情に精通しているだけでなく、アイデアマンでもあったから、孫兵衛に「『吉原細見』をこうしたらどうか」と様々な提案をし、そういうことが続くうちに、
「蔦重はまだ若いが、〝吉原の申し子〟のような男。彼ほど、吉原事情に精通した出版人はいない。餅は餅屋だ。この際、思い切って、うちの『吉原細見』の編集そのものを全面的に蔦重に任せてみよう。妓楼の買い上げも増えるに違いない」
そんな気にさせた。
任せたいといわれて異存があろうはずはなく、蔦重は喜んで引き受けた。それが『細見嗚呼御江戸』である。こうして蔦重は、単なる書店主から編集者へと羽ばたいたのだ。
蔦重は、現状に満足せず、いつも前向きで、「どうすれば、もっと本が売れるようになるか」「もっと、いろいろなことに挑戦したい」などと自問自答した。
「それには、これまでの『吉原細見』にないことをやるべきだ。誰もが知っている大物の戯作者に序文を依頼すれば、本の評価は高くなり、信頼性も増す」
序文を源内に依頼したのも、そう考えたからだった。
その読みはズバリと的中する。蔦重以前に『吉原細見』のような遊郭のガイドブックに、源内のような大物が序文を書いた例はなかったから、世間は注目し、本は売れた。
